Habby中野

VORTEX ヴォルテックスのHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

VORTEX ヴォルテックス(2021年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

終わりから始まる。これはいかに映画が現実そのものではないのか、一方で現実の見方そのものであるのかを知り、究め、体現している。きっかけをあたえる、とかではなく物の見方そのものの正しさを見られる側が直接問うてくるのは呵責的に苦しい。いやそもそも見る行為に従属性や権威を感じてること自体が危うい。見られる方が悪いとでも?

にんげんひとり、たましいひとつ。目ん玉二つ。確かに、なぜ画面は一つしかないのかとは考えていたがこんなことをしてくる人がいるとは思いもしなかった。ゆるやかに分割されていった画面は、不自由な単一の視点に抗いつつ(この作品は「カットバック」という革命的な手法を隅へと追いやった)、人生の終をともにする2人を─まるで人間2人に2つの神の目がついているかのように─同時に見つめる。片方が寝ている時、片方は徘徊する。片方が詮ない時間を過ごす時、片方は充実している。これを同時に見るということは何か。いや実のところわれわれに「同時に見る」ことはできていない。二画面のうち(この二つの枠をそれぞれ「画面」と呼ぶことが正しいのかもわからないが)の動きが大きい方、音の大きい方、台詞が発せられる方、個人差あれどそのどちらかに視覚も聴覚も寄ってしまう。ときどきは同時に見ようと努力して、どこから聞こえてくるのかわからないラジオの字幕を必死に追いかけながら左目で左側を右目で右側を探したりして結局ピントは曖昧なまま何も見ていないことに、はたと気づく。われわれは、2人の生のうち、片方ずつしか追うことができない。どれだけ画面の前に張り付いても、見逃してばかりになってしまう。すべての瞬間を捉えることはできても、見ることはできないのだ。この場所でいつか起きたこと、これから起こること。いま、どこかで起きていること。神によってしか認められないとしても、それは存在している。
片方が孤独な時、苦しい時、それに触れ得るのはもう片方ではなく、画面。そして、片方の時間がなくなった時、スクリーンの半分にはもうなにも映らない。
映画評論家の夫は人生は夢の中の夢だと言い、一方で映画を見ることは夢を見ることだと言う。それはいずれも「見る」ことの限界と「ある」ものの無限への言及のように思う。視覚としてではなく、存在としてのカメラとしての人間ひとりの存在。カメラがそのまま媒体として、記録として、場所も時間も超えた存在となることを自覚することの可能性。元精神科医の妻ははあらゆる薬をトイレに流し、息子は自らの子の前で薬を吸引する。それぞれ、片方の画面で。
カットの変わり目で、または動作の変わり目で。挟まれるのは瞬きか命の明滅か、いや、それは過去の時間を留め置くスライドショーのトランジションだった。記録される瞬間、あるいは誰にも見られなかったそこにあった瞬間。ありとあらゆる場所、時間は「故人を偲ぶ」ことに協力的だ。映画の中で絶えず”次の一枚”へと移行する中で夫婦は、いや、われわれは抱きしめるような眼差しと戸惑うようなそれを交差させながら、いずれ訪れるもっと長く挟まれる無辺の黒みを待っている。故人を悼みながら、過去を妬みながら、現在を忘れながら。

死ぬことへの恐怖が無に帰すことに因るのなら、生きることだけを有たらしめているもの自体を疑えば、生を「有」と死を「無」とすることを諦めれば─あるいはここを「どこか」と、いまを「瞬間」だと決めることから抜け出せれば、それは絶望ではなくなるのかもしれない。終わりとは恣意的に打たれた点でしかない。直線ではなく、渦だけがある。これを見ること自体が救いの手、と受け取りたい。あまりに悲しくて辛いから。上映が終わって長い深呼吸をした後に、これが終わりから始まったことを思い出して、始まりはどこだっけかと、夢の中の夢の中の夢から覚めた。
Habby中野

Habby中野