ひの字

すずめの戸締まりのひの字のネタバレレビュー・内容・結末

すずめの戸締まり(2022年製作の映画)
2.5

このレビューはネタバレを含みます

置いてきぼりをくらった気分でひどく寂しい。
期待しすぎた、というのが正直なところ。説得力のあるファンタジーって難しいのだなと。
震災を扱っているということは知らずに観た。
ただ、白い廃墟に浮かぶドア、神秘的な美男子、「すずめ」という楽曲の美しさに惹かれて観た。美男子はまさかの大半椅子になってしまうので、最初と最後にしか出てこないが。
天気の子のラストがかなり好きだったので(※前半は楽しさの記号化が凄くて興味がなかったの
でマトモに観ていない)、今回はもうすんごいんじゃないかと、期待しまくってしまっていた。

知らない男の人に「イケメンのひとー」と廃墟までついて行ったり家に上げたり、大事そうな石を引っこ抜いたり得体の知れないドアを開けっ放したり(お転婆は昔から起点となってきたけど、さすがに目に余った)、知らない人が知らない人を、それこそテレビの取材とかでもないのに家にあげたりご飯を提供したり大事な家業を任せたり車に乗せたり素性の分からない女の子を宮城まで即決で連れて行って車壊したり、そんなこと現代社会の私たちはするだろうか? 上辺では笑ったり泣いたりしているけれど、実際お話を成立させるためだけにこの人たちは動いているんじゃないか? と、登場人物たちに感情移入しづらい。よって展開も飲み込みにくい。

すずめの叔母さんへの言動もそうだが、作品として出来事への「有難み」が圧倒的に足りない。だから妙にリアリティがない。終始無意識の「そうはならんやろ」が脳内で邪魔をしてくる。

分からない、普通他人って他人に対して、ここまで親切じゃない。だからこそ親切にされたら「有難い」のだ。本当のところ、すずめと草太の大冒険は、愛媛の山中で雨に打たれて捜索願いが出され、警察に駆け込んで終わりだろう。「あんた運がええわあ」だけで進んでいく物語に、結構初めのほうで置いていかれた。

何か並々ならぬものを背負っていると思われた草太は、わりに普通の男の子だった。少し大人しめであるだけで、これまで主人公をやってきたいたいけな少年たちとさほどの差はない。まあそれは何よりなんだけども、ごめんよ変な期待してさ。あともういいけどなんで教員(たぶん公立)受ける時期に髪伸ばしているの。芹沢はあの茶髪で教採(しかも二次)受けたの。
重要な個性である閉じ師も、なぜあんな重要な仕事がこんにちまで無償で個人に託されているのか、経緯が分からない。

で、これが最も気になっているのだけど、震災の描かれ方がかなり危うい。
被災地で育ち、多くの人が懸命に震災に取り組んでいる実態を幼い頃から見てきた。地震はプレートの歪みが引き起こす天災で、私たちはその上に乗っかっている蟻みたく無力な存在で、だから、今はどうしてもどうしようもない。「想い」や神秘的な祈りでどうにかなるものでないことを、とっくの昔に叩き込まれている。
その震災で実際、かけがえのないものを失った人達がたくさん、今も傷と向き合いながら生きているのに。
生き残ったからこそ、身近で多くの人が死んでいった事実があるからこそ、自分の命を大切にしていてほしいのに、「生きるのも死ぬのも運次第だと知ったから、死ぬのは怖くない」なんて"被災者"に言わせる感性も悲しい。運次第だからこそ、生きることは有難いんじゃないか。僕はすずめさんが生きていることを有難いと思うし、これからも生きていてほしい。そんなセリフがあれば、あるいは…
せめて作中の誰かからはそう言ってほしかったな。
同じ「地震」という言葉で、180度異なるおとぎ話を、こうも盛大に映し出されるとは。
作品の中でたった二人、軽やかにドアを閉めていく。現実を抱える私たちから、どんどん遠ざかっていく。
寂しい。

もちろん美しいシーンもあった。
「すずめは幸せになるんです。これは、絶対なんです」乗り越えた主人公が、乗り越える前の主人公に言い聞かせるのは素晴らしい。
今はつらくても、また必ず幸せになる日が来る。グリーフケアとも言える優しいセリフたち。ただこれは、震災だからこそというわけでもなく、一般的な慰めだ。
だから大したことはないと言いたい訳ではなく、このような震災の描き方、展開にしなくとも入れられたシーンだろうと言いたい。

さらに、二人は恋をして結ばれる。おめでとうとは思う。でもなぜか実感がわかない。
「出会ったの」の後に「付き合うことになったの」と一足とびで報告を受けたような、そんな心地がした。確かに二人は長い間、ともに「大切なこと」をしていた。それを観ていたはずなのだが。椅子だったからかな…まなざしが分かりづらかったから…?
恋とはそんなものだと言われてしまえばそうだが、そりゃ本人たちがそうだと言うならそうでしかないのだが、終始ドタバタで圧倒的に対話が足りず、だからこそ私に見える経過が乏しく思えてしまった。
少なくともすずめが叔母さんや自分の生活を捨てて草太とダイジンを追うことにして、なんなら草太の身代わりにまでなろうとした、までの理由が演出されていたとは感じられなかった。

そもそもこの監督の心理描写と自分の感覚はかねてから相性が悪いと感じていたのだが、恐らく、尺という問題もあるのだと思う。
本来なら長いスパンで描かれていくべきはずの心情変化が、設定的な時間経過の割愛すらなくリアルタイムで、ものすごく早く浅くうつり変わっていく。
この尺で描かれるには、このシーン構成で描かれるには感情の展開が複雑(壮大、人を愛するということはとても壮大であるので)すぎたというのがあるのかもしれない。

唯一、この映画の中で私を置いていかなかったものがある。
ダイジンだ。まず声優がよすぎた。可憐で残酷な声。等身大の芝居。素晴らしかった。子どもの声が大人に「お前」呼ばわりされている状況も新しくて、人ならざる神っぽさがある。
ダイジンはシンプルだった。すずめが好き。すずめとずっと一緒にいたい。だから、ミミズを封じるために自分を使う、自分に機能としての神を求めて願望を否定する存在である草太を排除したい。石になったら、すずめと一緒にいられない。たぶん初めて、優しくしてくれたのに。
心境の詳細な説明はほとんどなかったので、かなり想像で補ったところはあるが、それができるくらい、ダイジンの推移は尺に合っていたということだと思う。

なので私はすずめが草太を起こそうとしていたとき、機能に戻る覚悟をして椅子の足をくわえたダイジンに号泣していた。感情移入できる要素がそこしかなかったので感情全振りしたわけである。

ここまで書くと相当なアンチみたくなっているが、私は観る前ものすんごく期待していたのである。友達に「ドア閉めた時の雨の感じとかエヴァの真似じゃない?」「男の人ただのハウルじゃない?」だの言われようと、「すずめ」の楽曲も最高であったし(なんとエンドロールでしかまともに流れなかったが)、君の手に触れた時にだけ震えた心なるものが描かれるのだと心待ちにしていたのだ。
ただし忘れていた。このシリーズ? の心理描写は野田洋次郎ただ一人に託されていたこと。

だからこそ、初め私が好感を抱いたビジュアルやキャラクターに、なんだかとても置いていかれた気持ちがしてしまった。楽しめない自分の気持ちにも、置いていかれた気がした。
しかし音楽含む芸術センスは本当に卓越していたので、お金を払う価値はあったと思っている。だからこそやりきれない気持ちにもなるのだが。

架空だからこそ、ファンタジーだからこそ、心は丁寧に描いてもらえたら嬉しかった。そうしたら、きっと震災の描かれ方や、物語の構造そのものが少しだけ変わって、私のように置いていかれるやつが少しだけ減ったんだろうと、そう思わずにはいられない。
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