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ケイコ 目を澄ませてのキャサリンのレビュー・感想・評価

ケイコ 目を澄ませて(2022年製作の映画)
3.7
映像の荒さや、俯瞰的なショットも、大きすぎる環境音が妙に心地よくて、ホッとする感覚があったけれど、それが自分の中でうまく言語化できなかった。
監督インタビューを読んで、やっとその言語化できないながらに感じた納得感とか心地よさがほんの少し理解できた気がする。

ケイコにとって「何故ボクシングをするのか」の明確な理由なんてなくて、ただ目の前のものに縋り付いて、この刹那的瞬間に、必死に喰らい付いていただけで。
ジムの閉鎖という終わりある日常を見据えつつも、皆その瞬間を大切に過ごす、
…で、結局彼らが出した答えは何なの?となりがちだけど、でも…
それでいいんじゃないの?
明快な理由や答えなんて、他者にとってわかりやすい口実なだけで、本当のことなんて本人にしかわからない。
もしかしたら本人すらわかっていない。

主演、岸井ゆきのさんのインタビューでも、"目標は?と聞かれても、特に自分がどうなりたいとかはないんです。"とあった。

私自身も仕事をする上で、今後どうなりたいかを考えることはあるけれど、それって例えば上司に、友人に、家族に自分の今後を示すための方便であって、
今を必死に"ストラグル"して行く中で、他者に自分を明快に理解させることの"窮屈さ"を感じることがある。
でもこの映画は、他者にとっての「わかりやすさ」を正とはしていないし、
"その人"のことはわからないけど、"その人"が「今を生き抜く姿」そのものを美しいものとして映していて、何となく、その描き方に安心感を感じたのかも。
試合中の興奮、ミット打ちの響きの快感、ランニングの清々しさ、会長とのシャドーイングの無言のコミュニケーション…これらの時間をその瞬間瞬間を大切に想う、というか。

主人公のケイコは生まれつきの聾者で、それゆえの社会的差別や、生活の不自由さはあるかもしれない。
でもこの映画は敢えてそういう側面にフォーカスせずに、
ケイコが周囲の音を「わからない」ことを、
見ている私たちがケイコのボクシングの動機やケイコの心情を「わからない」ことを、
耳の聞こえる人間にとって、ケイコと友人たちの会話の内容が「わからない」ことを、
それらをただただ許容し、「でも、そういうものじゃない?」と俯瞰的に映しているのもとても真摯で良いなと思った。

感情や感覚は一つの解に収束していくものではないので、
人は「わかるようにする」過程でいろんな要素を削ぎ落としてしまっていて、むしろ本来の意味を見失ってしまっているように思う。
だけど「わからない」ことをわからないまま許容する方が、その人自身の本質に近づけるのかもしれないな、とか。
何でもかんでも自分事にしない、というか。
主演の岸井ゆきのの演技が素晴らしいのは勿論、弟役やジム会長など、サブキャラも皆とても素敵だった。
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