キャサリン

福田村事件のキャサリンのレビュー・感想・評価

福田村事件(2023年製作の映画)
3.7
正直違和感の多い演出ではあったけど、それなりに上手く機能していたし、
そもそも忘れられていた史実の発掘と人間の本性という普遍性のある問題への提起として、とても意義のある映画だったと思う。
誰もがどちらの側にもなりうるという危うさに、見ていて恐怖感と罪悪感が同時に襲ってくるような感覚があったし、見終わってからも人間の恐ろしさに手の震えが止まらなかった。
(映画を見て手が震えたのは初めてだったので自分でもびっくり)

作劇としては、序盤から中盤にかけて、色んな登場人物の群像劇的というか…何を見させられている?という印象があったのだけど、監督はドキュメンタリー作家とのことで、くどいまでの群像劇は、ある意味納得感もあり。
朝ドラ演劇っぽい台詞回しやピンとこないカメラワークのせいでチープに感じてしまったけれど、だからこそのトランス状態のような殺戮がより恐ろしく嫌悪感のある表現になっていた気もしないでもない。
一見関係なさそうな個々人のストーリーから、本筋の虐殺シーンへの急な展開は、タランティーノ感あるなあとか。

村側の群像劇は昭和のドロっとしたドラマっぽくて、なんだかなあだったけど、
行商側の群像劇はそれなりに感情移入もできた。
その分クライマックスシーンで、見ていて止めに入った村民と同じように、この人たちは違う!と思ってしまったけど、「朝鮮人なら殺してええんか」の一言に、結局は自分も(どちら側であれ)大きな意識にまかれてしまうのだなと、情けなく感じてしまったり。

東出演じる船頭とコムアイ演じる未亡人は不貞、井浦新の澤田や田中麗奈演じる妻・静子は朝鮮暮らしの経歴など、
ささいなきっかけでも、村社会という小さなコミュニティでは、疑われるだけの十分な理由になってしまう。

「彼らは朝鮮人じゃない」といくら叫ぼうと、疑いを持たれた時点で、小さな社会で発生した"恐怖を源にした集団意識"には敵わない。
村の若者の「今自分もいかなければ村八分にされる」という発言は、まさにナチスのホロコーストや今の社会でも起こっている全体主義的、誰もが陥ってしまうリスクを孕んだ思考だと思う。
というのも村人たちの動機は本当は「村を守るため」などではなく、「村社会で自分のポジションを守り続けるため」であり、まさに何よりも「村八分」が一番の恐怖であったから。(だと思う)
あんな事件を起こした後でも「自分が悪いのではない、村を思ってやったんだ」と言い張ることで自分事を集団意識にすり替えて、自分の罪を軽くしようとする。
全体主義の根本は恐怖支配だと思うので、「朝鮮人なら殺してええんか」という道徳的な発想すらできない。
恐怖を募らせた村民の興奮状態は、村の女性による静かにサクッと降ろされた一手によって激しく決壊したダムのように歯止めが効かなくなり、ああもう止められない…と虚無感に呆然と画面を眺めてしまった。

そういえば途中で殺された朝鮮人の少女や、殺された行商など、所々で名前を発するシーンがあった。
これは映画の中というより、見ている観客に訴える演出だろうなと思っていたのだけど、
"名前を明かす"ということの意味について少し考えてみた。

朝鮮人も部落も、あくまで集団を示す"レッテル"であり、個人を指す言葉ではない。
そもそもレッテルというのは自分(達)と他者を区別するためのツールであると思っていて、自分と異なる他者にレッテルを貼ることで、"相手との比較によって"自身のポジションを明確にする・確立することができるのだと思う。

「〇〇ちゃんは真面目だねえ」というのも同じくレッテルなのだけど、小さな単位でのレッテルの張り合いはさほど大きな問題に発展しにくいが、
今回のように国同士、民族同士の争いになるとどうしても主語が大きくなってしまい、敵にレッテルを張る以上"主語側"も一丸とならざるを得ないし、"主語側"内部ではみ出しものになってしまうと、途端に自分もレッテルを貼られ敵対されてしまう。
集団意識とはまさに敵対レッテルを貼られないために、互いを守る安易で合理的な防衛方法なのだろうな、と。

それに対し、"名前を明かす"ということは、レッテルから抜け出し、他者との比較なく一個人として自らを示す行為なのかもしれない
だとすると今回の映画で最も重要な演出は、まさに名前を明かすシーンだったのかな、と。

長々描いてしまったけど、チープな作劇を踏まえた上でも、すごい映画だったなあ、と。
でもあまりにも人間の嫌なところばかりなので、もう二度と見たくないとも思った。
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