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MEN 同じ顔の男たちのdojiのネタバレレビュー・内容・結末

MEN 同じ顔の男たち(2022年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

男のいやなところを煎じ詰めたような映画という前評判を聞いて、いろいろと自戒にもなりそうだと思ってみた。田舎町の男たちの顔がすべて同じだという演出から、体型や人柄などの違いはあっても、男であることの悪は同じであることを示す意図を感じるし、じぶんに興味のない女性を侮蔑し、マンスプレイニングに余念がなく、都合が悪くなると口ごもって話を聞こうとしない男たちの醜態がさらされていく。

そういった町で出会う男たちは抽象化された男性性であり、主人公であるパーパーの夫のパーソナリティが、ハーパーの嫌悪と恐怖のベースラインとして描かれている。町山智浩さんがpassive aggressiveだと解説していてなるほどなと思ったし、抽象化した町の男たちは旧世代的な男性性であるのに対して、ハーパーの夫は現代的なナイーブさのある男性性として描いているのだと思う。ハーパーを殴った時点で一線を超えているにせよ、多くの人が身に覚えのあるのは後者だろうと思うし、それが町の男たちと同性として描くことの意地悪さよ。

グリーンマンが登場することで繁殖のメタファーが示されるのは分かったけれど、ラストのおぞましい増殖のプロセスが、どうして女性的に描かれるのかがわからなかった。あきらかに妊娠を示すおなかの膨らみと女性器から生まれてくる男たちの姿に、なぜ男性性のかたまりに女性性が宿されているんだろうと。帰り道歩きながら考えたけれど、それはハーパーが妊娠していることによる、夫の子どもが産まれてくる恐怖なのではないかと思った。増殖の果てに現れるのは夫なわけで、彼女が妊娠した先に同じことが訪れる恐怖がそこに反映されているのだろうと思う。

たんぽぽの綿毛のメタファーはほんとうに気持ちがわるかったし、彼女がそれを吸い込んでしまう描写には絶望的な思いがした。町山さんによるとアレックス・ガーランドは「進撃の巨人」をみて、男性の裸のおそろしさを追加したとのことで、たしかに男性の身体はそれだけで気持ちがわるいのだろう。ぼくも男性だけれどその感覚がわかるから、銭湯にもサウナにもこわくていけない。男性であることが心底いやになるし、種を飛ばすことなく静かに生きていきたくなってしまった。
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