大島育宙

CLOSE/クロースの大島育宙のレビュー・感想・評価

CLOSE/クロース(2022年製作の映画)
4.1
(※公開後追記)交換不可能な相手と親密であれることは何ら恥ずかしいことではない、むしろ誇るべきことである、という当たり前を、大人の社会が子供の感性に教えられていないことが切実な問題だ。今扱われるべきテーマだし、真正面から向き合ったこの映画は間違いなく今1人でも多くの人に観られるべきだ。

関係性や性質について、自分から語ることはセルフラブ、セルフケア、ひいては主体的に生きることにもつながるが、他者から規定されたり抑圧的に質問されることとは全く別であり、後者の圧はますます否定されていく時代になってほしい、という願いを可視化した映画でもあろう。(マイノリティが自虐ジョークや誇張的ファッション、仕草などのコードにより内部で連帯を高めることは否定されるべきものではない。やはり内発的か、外圧か、と言うところに大きな違いがある。)

子供たちが子供同士で向けてしまう無邪気なカテゴライズは、大人たちが作ってしまったコードである。「ませた」子供は大人の真似をしてゆらぎや少数者を追い込んでしまう。

主人公の少年2人が「ごっこ遊び」の中で、武装したまま見えない敵から隠れる遊びをしているのが象徴的だ。彼らは無意識に、もしくは深層心理で、得体の知れない大きなものから隠れ、2人だけの空間を欲している。その「ごっこ遊び」そのものがシェルターであると同時に、遊びの中でもシェルターに入っている。あの土壁のような、おとぎ話的で、閉塞的な構造なのに太陽光は燦々と入る建物の一角、素晴らしいロケーションだ。

否が応でも肉体がぶつかり合う、ホッケーのトレーニングというモチーフも適切だ。団体戦である一方で、1人1人の痛みは個人が背負わなければならないスポーツだ。

奇しくも同時期に公開となった『怪物』との比較も各所で行われているし、これからも行われるだろう。私はこの二作に限っては優劣の比較はナンセンスであると思う。『クロース』がお花畑から始まる物語なのに対し、『怪物』はお花畑へ向かう物語だ。『クロース』の主眼は悲しみからの癒しという、ある種王道の救済の物語なのに対し、『怪物』は世界そのものを転生させる、祈りと冒険の物語だ。いずれの作品的アティチュードを支持するか、という好みの問題はさておいて、この二作は相互補完的な、似た主題を扱いながら真逆のアプローチになっていることこそが豊かであると思う。