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窓辺にてのSQURのレビュー・感想・評価

窓辺にて(2022年製作の映画)
4.0
今泉力哉監督の映画を観るのはこれで4作目で、毎回とても良い映画だと思う。観ていて気持ちがいいし、"豊か"だと思う。一方で、監督の映画が記憶の中で溶けていく速度はいつもとても早い。観終わったときはすごく好きな映画だと思うのに、数ヵ月後に思い出すことは少ない。これは映画としてどうなんだろうか? 観る必要があるのだろうか。映画の刹那的な体験としての価値の部分と鑑賞後も継続する価値の部分で迷う。

それでも、印象的なシーンというのがいつもある。特徴的なシーン、例えば『街の上で』なら2人の対話シーン、『愛がなんだ』や『猫は逃げた』なら立場の異なる複数人の対決シーンはとても見応えがある。今作はというと、更にそういった見応えのあるシーンをとても丁寧に削ぎ落としている。上述した「対決シーン」は今作にもあるのだが、あっさりと流れていき印象に残らない。今作は観客に訴えかけるシーンが全くない。まるで意図して印象に残らないように心がけているかのように。.......そしてそれでいて映画は上手いので、観ているととても楽しくて気持ちがいい。

今作は、人を愛するとはなにか、というテーマを扱っている。今泉力哉作品ではこれもお馴染みであり、多様な愛の形があるといった結論でだいたい落ち着いてきた。
愛や結婚や、人生などの意味をテーマにした作品にはいくつかのアプローチが考えられる。ひとつとしては、強い結論・メッセージを投げかける映画。しかしこれは、観客もまた多様なため、押し付けがましいという印象を与えてしまいかねない。そこで、人生の意味付けは人それぞれ、そのうえで今作の登場人物はこういった意味付けを行いますよ、といったスタイル。これは至極納得感のある強力なアプローチだ(監督の過去作も言ってみればこの姿勢が強かった)。
しかし本作は、そういった相対化の先に結論を出すことさえ拒絶する。登場人物は一様に悩むだけ悩み、徹底的な話し合いの末共通理解に到達するというプロセスを経ず、みな一様になんとなくの落とし所に落ち着く。
今作は観客に全く何も押しつけない、ただ"良い映画""観ていて気持ちの良い映像"だけがある。
この映画を良い映画と言って良いのか、正直かなり迷う。監督にとって、観客にとって、私にとって、こういった偏執的に抑制された映画は果たして「良い映画」と言えるのだろうか。
なんとも言い難い。それもそのはずで、「何のために人は生きて小説を書くのか」という作中で回答を見つけるのを放棄した問いと、この映画自体の意義の形はまるで相似形なのだ。
このウロボロスの蛇のような映画の構図は、非常に消耗する。観終わってすぐに、脱力感と無力感に襲われた。

閑話休題。
今泉力哉監督の映画に出てくる登場人物がいつも中流階級なのが気になる。それは社会のレールから基本的に外れずに済んできた人たちということだ。
基本的に"綺麗な"人たちが、あるときふっと意味の消失に陥り、自身の存在があまりにも奇妙なことに戸惑う。そういったことを執拗に描き続けている。
それはエゴなのか、それともそれを追い続けることに価値があるのか、ああまた映画とは何かの話に戻ってきてしまった。

閑話休題。
世の中には"変人バトル"というジャンルがある今私が勝手に名付けた。凡人と変人が出てきて、より素っ頓狂なことをした登場人物が"正しさ"というパワーを得てほかの凡人に優越する。そして変人同士が惹かれ合い通じ合う.......。今作の受賞インタビューのシーンはまさにその典型例、なのだが。今作の変人、久保留亜は話が進むにつれて凡庸になっていく。凡庸になることが変人部分を引き立てることも多いのだが本作ではそのようにもならない。玉城ティナという"特別さ"を見出しやすい役者でありながら、どんどん埋没していき、そこに意味付けもなされない(物語に対して周辺化していく)という構成はなんだか面白いと思う。
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