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落下の解剖学のSQURのレビュー・感想・評価

落下の解剖学(2023年製作の映画)
4.0
法廷ものとして、とても面白い。
同時に、法廷ものとして面白いということが逆説的に"法廷的なこと"の問題点を強調している。

弁護人は映画の序盤で「何があったかが重要ではなく、どう思われるかが重要だ」といったことを繰り返し主張する。
また、検察や証人は幾つかの物的証拠から、彼女と夫の間になにがあったのかについての物語を想像し話す。
この点において、検察と弁護人は共犯関係にある。彼らは「事実がどうであったかではなく、どう思われるかこそが大事だ」という点で暗黙のうちに同意している。
そのようなテーゼは、しかし、映画の観客もまた同意せざるを得ない点になる。映画の中では「すべて」が映されるわけではない。限られた「事実」から物語を想像する、というのは映画の観客が普遍的に行っていること、すなわち映画鑑賞のもつひとつの側面だと言えるだろう。従って、観客と検察と弁護人と判事と……全員がある種の共犯関係となる。その共犯関係のうちで、観客はこの映画を「法廷ものとして面白い」と感じることができる。
しかし、「物語として再構成する」というのは映画鑑賞のあくまで一側面でしかないことを、この映画は、法廷ものとして面白いことで逆説的に表現する。それはこのような方法によってだ。
最初、2人の会話から始まる。映画が始まった時点では、職業もなにもかも明らかになっていない。観客は彼らがどのような人なのかを想像しようとする。観客は2人の口調や仕草から、彼らの人となりを想像する。そういったときに観客は彼らの僅かな身振りにも敏感になり、彼らがなにを考え、なにを感じているかを理解しようとすることに必死になる。「死」がもたらされる直前まで、この映画ではそのような意識を観客が持つことのできるゆとりを用意している。観客は少年が犬に棒を投げるときの気持ちや、肌寒ささえ想像できるはずだ。それこそが映画鑑賞のもうひとつの側面であり、私たちは映画を観ながらつねに登場人物たちの心を想像し、そして想像したことで自分の中に生まれる心に注意を配りながら映画を楽しんでいる。

そういった想像の余地は、映画内での法廷が熱を帯びるに連れて、言葉に(つまり物語に)圧迫され、その余地をなくしていく。私たちは、彼らの言葉のひとつひとつに注意を払うようになる。しかし、それは、映画の最初のころに行っていたのとは全く別のかたちで。つまり、彼らのロジックの正当性を評価しようとする、彼らの物語の真偽にばかり気を取られるようになる。そうして、そこにいる一人一人が(あの嫌味な検察官でさえも!)、その法廷のただなかにあってなお、考え想像する主体であることを忘れる。

事件後すぐに弁護人が突きつける「事実か、物語か」といった二者択一が既に「真実」に対するひとつの強迫的立場であることに、法廷が加熱し、それを面白いと思いながらもその激論に疲労を感じた瞬間に観客は気づくことになる。真実は、なにがあったかでも、どのように筋の通る話ができるか、でもない。「真と偽しか存在しない」というルールは"法廷"が用意した最初の嘘であり、「大切なのは事実か物語か」ということを論じようとした瞬間に既に、その前提を受け入れたことになる。

『落下の解剖学』の映画としての構造は、昨年公開された『対峙』と似ている。言語のもつ意味の側面を暴力的に叩きつけ、そして映画の頂点においてその舞台から軽やかに立ち去る。
ふたつの映画の相違点は、『対峙』が今・ここの感覚とそれを通して(やや受動的な)間主観的に他者と繋がることに重きをおいたことに対して、『落下の解剖学』では能動的に他者と繋がらんとすることによる、つまり「心で心を思うこと」による"言語の法廷"からの撤退に重きをおいている。

重要なのは、なにがあったかでも、どのように印象づけられたかでもなく、どのように生きたのか、そしてどのように生きたいと思うかである。
「人に会うことが大切だ」と冒頭で主人公たちは語る。すでにそこから本映画の終幕は予期されている。
人と対面する中で、僅かな"シグナル"にも気づくほどに集中し、彼がなにをどのように感じどのように思っているかを想像すること、少しでも想像がうまく行くように彼らの歴史をその人の主観的理解のもと自分も知ろうとすること、そして彼と同じように自分もそれを感じながら吟味し、更にはそうして彼と自分を重ねることで自分の中に浮かんでくるイメージや想いや感情に気がつくこと。
息子は最後の法廷でそれを成し遂げる。彼は父がどう想っていたかを想像する。それは決して確証をえることのできないことだし、もちろん彼はそのように考えた方が筋が通るからとその物語を採用すること決めるにでもない。彼はただそう思うことに決めるのだ。そう想っていたのではないか、と想像することで彼の内面の想いや家族に対する感情は変化し、彼はそれに気づいている。真実はその瞬間にしか宿らない。

言葉を理解しようとすることは、人と人との繋がりのうえに成り立つ力強い関係のもとで私たちが生きるための、生活の余地を奪う。したがって私の以上のような映画の理解や解釈も、書かれた傍から打ち消されなくてはいけない。
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