psychedelia

野いちごのpsychedeliaのネタバレレビュー・内容・結末

野いちご(1957年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

冒頭で「人は集まると他人の陰口を言うことに時間を費やす。だから私は極力人を避けて生きてきた」という主人公の言葉が語られる。

プラトンが『国家』中において行なった善の「イデア」の証明が, 悪の「イデア」の証明からの逆説的な証明でしかなかった, つまり「悪」とは如何なるものであるかということを細部に渡って把握し, これを制御する技術が善及び正義であると結論付けるしかなく, 悪を指摘するように善の自律的な正体を鮮明に指摘することができなかったのは有名な話である。プラトンでなくとも, ドストエフスキーやバルザック, 宮崎駿に至るまで, 人間の生の根本と対峙した芸術家や思想家たちの出発点で, たとえモチベーションがどれほどポジティブなものであったにせよ, 一旦は生を-生が無条件に幸福であるという常識を破壊するところから始まらなかった例は存在しなかった。これは哲学というものの根本的な性格を考えてみれば当然のことだ。哲学の出発点は常に現実である。今われわれが立っているこの場所である。しかしその意図は現実の肯定ではない。現実に確かに存在するものしか哲学の対象になり得ないのは間違いないが, 目的はかような存在のそのままの肯定ではない。却ってその存在の確実性を一旦可能性に過ぎぬものと見ることによって新たな認識の軸を樹て, その新生の認識によって眺められた存在は新たなより確固たる存在となって再び現実に戻ってくる。現実が否定を媒介にして新たな現実へ戻ってくる。それが哲学の根本の精神である。だとすれば, あらゆる偉大な芸術家や思想家が生の原理を思惟するにあたり, 一旦生の通俗的な性格を否定するのは当然であろう。

しかし, そういう思弁は常人には困難である。ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』を書いた後で「あと私に残されているのは私自身が発狂することだ」と言った。また高橋和巳は『文学の責任』の冒頭で, 古代インドの民が残した<双身(アシュヴィン)の時間>という伝説を引きながら次のように言う。「彼らは蜜の皮膚をして甘き蜜の鞭をうちふり, あるいは海洋におぼれた者をたすけ, あるいは盲者に意識をあたえ, 跛者をあゆませ, 衰老の者の回春をはかる奇蹟力をもつという。-しかし, 暗黒と光明, 絶望と期待との陰陽交錯するわずかばかりの時間を, すばやく駆けすぎる双生の御者とはいったい何物だろう。神話はただそれだけをしるすにとどまり, みずから世界に光をみちびいた双生神じしんが, はたして太陽の光輝と滋味をあじわいえたかどうかについては, なにも記録されてはいない。(中略)私は妄想するのだが, そのうす明かりは, 背後から姿をあらわそうとする太陽の予光とはかならずしも楽観しがたく, もしかすると光明を求めつつも得られぬ者の苦痛あるいは, それ自体存在の価値なきものの自己主張の執念から発するはかない凡愚の火花だったかもしれない。(中略)察するに, 双生の御者自身は, つまるところ太陽を仰ぎえず, 道をふみあやまり, たがいに仇敵のごとくいがみあいながら息たえる運命にあるのかもしれぬ。」ドストエフスキーの『悪霊』中におけるステパン先生の聖書の「豚のところ」に対する言葉の中にこれと全く同じ覚悟が語られていることを知っている人は知っているだろう。またキリーロフの自殺の直前の遺言の中にも。彼らは, 自身は不幸だが, その不幸が後の人々の幸福のための予光であると信じている。地獄のような思弁の到達点であるこれら観念は, 凡人には能力的な無理の前に肉体的な無理によって妨げられているものだ。

『野いちご』の主人公であるイーサク・ブロイも, 年取った, そんな凡人の一人である。あるいは。ドストエフスキー的偉人とは逆ベクトルの偉人かもしれない。つまり凡人を間に挟んでドストエフスキー的偉人の対極に位置する偉人かもしれない。何故なら彼は生の現実の暗部を厭悪するあまり, 生の現実の光のみを見て生きようとしたのだから。物事の良き側面を探すことは重要だが, 行き過ぎると潔癖症となる。
彼が道中で出会う医学生は無神論者だが既に大家をなした医師であるイーサクは神を信じている。医学は物質の学問である。物質世界には陰も陽もありはしない。そこは1+1=2が厳密に成立する世界である。医学生は生の世界の頼りなさを蔑んで神の不在を悟り, 厳密な物質の世界を望んだ。イーサクは生の汚濁が自らの生活に極力入り込まぬよう, 物質世界へ逃避した。一見同じことのようだが, 医学生が神を殺し, 人間世界の儚い美や理念を敢然と捨て去ることで彼なりに生の原理と対峙しているのに対し, イーサクはただ目を逸らしただけで, 現実や日常と対決しようとはしていない。彼は物質世界からも日常世界からも, いいとこ取りをするだけだ。義理の娘が夫との関係に悩んで訪ねて来た時, イーサクが彼女に掛けた言葉は「私を生活上のいざこざに巻き込まないでくれ」だった。
彼は医学の権威であり, 神に対する崇高な頌歌を諳んじることもできる。それ故周囲の人間たちは彼を人格者とも人生の教師とも言う。しかし身内の言葉はそれに真っ向から反対する。「彼はエゴイストよ」そしてイーサクの息子はニヒリストである。

何処までも崇高な人格を目指した人間がエゴイストになる。これは我々が忘れがちな真理であろう。善なる自我によって世界を埋め尽くそうという衝動は誰もが持っていて, これは演繹的な意識である。却って, 悪を剔抉する意識は帰納的なものである。人生が演繹と帰納の無限の往復で成り立っているとすれば, 悪も善も共に生の原理である。

イーサクが極端な潔癖症として描かれているのはこれが一種の悲劇だからだ。しかし悲劇の本質は万人的なものである。でなければアイスキュロスの『オレスティア』の三部作やソフォクレスの『オイディプス王』がいまだに読者の感動を呼ぶことの説明がつかない。
だとすれば, イーサクは変人の老医学者ではない。我々自身だ。イーサク・ブロイは我々自身を映した鏡なのだ。

ステパン先生が到達したような, 偉大な思想に跪き生きることで人間存在は永久的な調和を取り戻す, という境地に辿り着くことは我々には不可能である。現代人はあまりに露骨になりすぎた。あらゆる神聖なものを堕落させすぎた。神秘というと人はただ幻想や幻覚としか見ようとしない。だが古代人がかなり早い段階から天体の観測技術を高い水準に発達させることができたのは星の運行があらゆる自然現象の中で最も法則的なものだったからに他ならない。最も法則的なものの中にこそ神の意思が顕現していると考えたからに他ならない。神秘と法則性の共存は現代人にとって普通のことだろうか? 科学の誕生は神概念の存立のためであったことをどれほどの人が知っているだろうか?

『野いちご』の最後, 主人公は昔日の追憶に心を慰められながら眠りにつく。神を失った我々は, 我々の思い出の中にその代わりを見出すしかない。追想の中に, 追慕の中に。この不幸は, はたして物質的な発達によって埋め切れるものだろうか?
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