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エゴイストのaymelloのネタバレレビュー・内容・結末

エゴイスト(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

まずは臨場感のある表情の接写と、激しく手ブレする画面に驚く。カメラワークもまるで覗き見している人の目線そのもののようなスタイルが多用される。「私たち」は人物の表情ばかり見ているため、「ここはどこなのか」がほとんど描かれない。この物語は背景5mの周囲を必要としていない。
接写は最近流行っている気がするがこの作品は特にすごく、最前列で見て酔いかけた。ベッドシーンではこれカメラの影入ってるんちゃうかと思わせられるほど。

鈴木亮平はいつものことながら、恐ろしくなるほどの入りこみ方。真に迫りすぎてわからないけれど、もしかしたら本人にない要素だからこそ、完璧にインストールしたのかもしれない。ずっと「演技オン」の状態を切らさないでいるのが、浩輔が纏っているLVの鎧とあいまって彼の孤独を引き立てていた。

宮沢氷魚はあざと過ぎる。以前マームとジプシーでやっていた初舞台を見たことがあった。当時は声も気も小さめの穏やかな人なのかな……?(失礼)と思っていたが、浩輔にトレーニングの声掛けをしているシーンで驚いた。とても深くて良い声をしている。
きっと本当に嘘をつけない人なのだろうなと思わせられる素直な演技がよかったが、相手が鈴木亮平なせいで、説明しない演技独特の空白が目立っていた。
それはそれでリアルなのだけど、鈴木亮平がうますぎて感情の機微を細かく説明できてしまうため、その説明が少ない宮沢氷魚が「何考えてるか分からない人」に見えてしまったのだ。
あざといし、綺麗な顔だし、隙しかないし、お寿司のねだり方露骨だし、騙されてるとしか思えない。今に家のブランド物全部持って逃げるぞこいつと思っていた。そんな勝手な不安をよそに、龍太くんはずっといい子でした。

一番言いたいのは、阿川佐和子がとんでもなかったこと……。失礼ながら出演作を見たことがなく、エッセイやインタビューの人というイメージだったのだが、手垢のついていない演技でこの物語の成立をどっしりと支えていたと思う。そのものだったと言ってもいいかもしれない。

思えば浩輔が龍太と母の家を訪ねた時から始まっていた。台所に立つ「母」の背中をじっと眺める浩輔――。ここで、まるで彼ら2人だけの物語のようなあのポスター写真は、戦略的なミスリードだったのだと気づく。
14歳で亡くした実母。生活感を削ぎ落とした浩輔の部屋に、ひとつだけ置かれた母の写真。「お母さんに色々してあげられてる龍太くんがうらやましい(うろ覚え)」というせりふ。実父とするよりも自然に弾む会話。龍太の死の前後で、シームレスに浩輔の「愛」のかたちが変容していく。
その母が生活を続けていくために、何よりも愛した龍太の部屋を片付ける。龍太の代わりに、白髪染めを手伝う。夜はまだ龍太の匂いが残る枕をかき抱くようにして寝ても、明るい内はふたりで爽やかに「龍太」のいない暮らしを整理していくエピソードが、とても人が生きている感じがして好きだった。

印象的なカットがあった。いつものように花を携えて龍太の母の病院を訪れた浩輔が、認知症らしき同室の女性にまた「息子さん?」と声を掛けられる。浩輔の「違います」と、龍太の母の「そうなの」という返事がかぶる。浩輔は花を生ける用意をしに行くが、慌ててメイクポーチも持ち出す。洗面台の小さな鏡で眉毛を描きながら、感情が溢れ出してしまうシーン。どう捉えたものかは迷うが、その表現にハッとさせられた。

いつだったか、浩輔は仕事の時は眉用マスカラまでして完璧に整えていたから、龍太の母にはすっぴんで会いに来るくらい「オフ」でいられたということだろう。口座から引かれる金額を見た後では、手土産の梨もうっかり安い方にしてしまいそうになった。あの浩輔にとって、よく見られようとする必要のない、気を遣わないでいい存在になっていたのだ。
私の解釈でいえば、その場限りでも「そうなの」と言ってもらえて嬉しい気持ちもあっただろうし、心が彼女の息子になりきっている自分に気付いてしまい、何とか他人であるという線引きをしようと眉を整えるなけなしの理性、これまでずっと自分以外のものと戦ってきた人が、もはやぼろぼろで意味をなさない鎧に執着してしがみついているような、いろいろな感情が混じり合った複雑で美しいカットだったと思う。

この作品には銀行の封筒が出てくるシーンが何度もあるが、そのたび口に苦い味が広がる。フィクションであろうが現実であろうが、この封筒を目にすることは高確率で「間違い」を意味するからだ。
でもそうするしかなかった。普通人間関係はお金が出てきたら崩壊の始まりだけれど、愛する人と一緒にいるか、もう会わないかしかないのであれば、そりゃあお金を渡してでも一緒にいるでしょう、これで二人とも幸せでしょう仕方ないと、今回の浩輔の立場なら思わずにいられない。

ここで同時に社会への目配りもされている。いつか専業のパーソナルトレーナーに…という夢を持ちながら、昼夜ろくに寝ないで働いても目の前の生活ができず、恋人にお金をもらって「ありがとう」の言葉とプライドをすり減らしながら生きている龍太。
対して雑誌編集者の浩輔が、あの絶対に仕事に使わない写真を撮ってもらって遊んでいる時間に発生した給料は、龍太の廃品回収や皿洗いバイトの何時間分だったんだろう。浩輔の家に飾られた絵の価値を、貸してもらったバスローブの値段を、Bluetoothスピーカーから流れるクラシック音楽の主題を、龍太はきっと理解できなかっただろう。

ゲイである浩輔と龍太が今まで社会のなかでどう過ごしてきたかは、冒頭の浩輔の田舎でのシーンと、通夜で龍太の母と話すシーンに凝縮されている。せっかく恋人関係を認めてもらえたのに、その口からは「ごめんなさい」という言葉が出てきてしまう。彼ら自身は、誰からも何も奪っていないのに。

見終わった後の夜風が心地よかった。
あと柔らかめに炊いたご飯をばくばく食べる柄本明からしか得られない栄養素を摂取できて、鑑賞体験としてとてもよかったです。
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