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サントメール ある被告のニューランドのレビュー・感想・評価

サントメール ある被告(2022年製作の映画)
4.5
✔️🔸『サントメール ある被告』(4.5)及び🔸『ウーマントーキング 私たちの選択』(3.5)▶️▶️

幽霊·亡霊によるかのような心や身体の深奥への傷痕や·人間間の距離の作用、社会の特異性と世代を越えて残り発展してくもの、についての最先端女性映画作家の2本。途中、家族についての緊急電話が入り最後方を出て応対しながら、また席に戻ったりしてたので、しっかり観たとは言えないが、傑作乃至は秀作の、強靭二本立て。
『サント~』。日本ではあまり話題にならず、海外では 評価高い、温度差大の典型作。個人的にはキネ旬ベストテンというのは(理屈からはともかく、感性からは)殆ど理解できない。5~60年代の‘カイエ~’、今は‘サイト~’や‘~コメント’のテンの方が遥かに正しい評価に思えた、または思う(。近年では『アンダー·ザ·スキン~』の日本での無視·低評価など考えられない事だ。昔なら、スタンバーグの最高作の1本『アナタハン』がそうだ。日本では観る側は多く常識の枠から判断し、特に美の感覚とは無縁だ)。嘗て日本では、私は一度も使ったことはないが、「完成度」なる訳の分からない評価軸が横行してた。本作はそういった流れの、いい、悪いという以上に、ある事象を捉えるのに、予め絞った視点がなく、あらゆる内面外面を丸ごと·全ての視角に強弱を付けずに、まんま一角から押さえ込もうとした、例をみない力業というか、偏りを排しての1宇宙を獲得した作品である。音楽の主導はしない不安定介入はあるが、実家や滞在先の日常·弁論と抗弁の法廷·夢やイメージの各世界が、明らかに異質なれど、剥き出し且つこれ見よがしでない、正確を超えた次元で連ねられてく。寄りや角度変、フォローらはあるが、かなりの部分が単純な切返しだけで続けられる(判事と被告人、弁護士や検事と·被告人、1傍聴人と被告人、判事と証言者ら、最短的位置取り感だが、時に別者はさまり、また中心的関係が変わると少しズレた別グループの角度·サイズの押さえ方にも無理なく移行する)、それはあまりにクリアでカメラへ向かうあり方や演技に関し、微塵の引け目やひね方もない。各々、極めて正確にある意味誠実に過去を現在として引っ張り上げ、そこに生き続けてる。しかし、ひとりの長い語りの内にも、それを別の者の目で語り直す証言との間でも、高まってはいかない、主に主観やニュアンスとしての不一致が現れてくる。しかし、それは必ずしも矛盾は完全には指摘出来ず、その全体の有り様が現実であり世界であると感じられてくる。それはそら恐ろしくも、産んだ子まで含む自己とその世界の、外界との遮断·隠蔽のしかし自然、に至る。その以前よりも、生まれ育った原語から公用的他言語への移行から生来の明るさ·コミュニケーション能力の閉ざされ、父母の離婚と変わらぬ経済的豊かさとそれぞれの大きな期待、それから逃れる渡仏と己れの道の主体的選択、血縁らと離れる住居変更、学問の方向変更わかり·親から縁切られて援助も打ち切り、仏学界も異人種蔑視当たり前に、逃げ帰った故郷セネガルでは白人系と拒まれ感、仏へ戻っても学問に戻れず·子守りから50代白人の愛人に、勉学へ戻れるのに彼その他への信頼は揺らぎ続け、彼が蔑視し誰も紹介しないと閉鎖的に。愛人の彼の方は人種蔑視でなく自分の高齢とのバランスで気を使ってたと、彼女も子供も真に愛してたと。らとその主観相互の相違が、彼女を次第に居場所を失わせていた。(愛人に発見以外は)子供の事は書類手続きも·周囲認知から隔絶か二人だけ特殊世界に一年半いて·その子の海岸置き捨て·波さらい待ちは·面倒厄介払いとは別の事。
この事件を取材話題化を図った作家は、その単純さを、被告人との目線合い続け·笑みで絡め取られで、その実の複相に呑まれ、妊娠中や自己の少女期の家庭の籠りかたを、別の自己に突かれてく。先方(被告人)の母の自信揺るがなさにも下に入る。肉体的·精神的苦痛に苛まれる。
(判事もだが女性)弁護士が、嘘を色々に重ね、呪術の周りからの投げ掛けに、身勝手に集約せんとしてるを、明らかに怪物と言える存在と規定しながら、更にそこからの幽霊的存在への言及、施設で更正されるべきものとし、以降とうとうと入り込み述べるは、フィクションへの逃げ·膨らましというより、被告人や傍聴作家の内的世界の固有絶対化と繋がるものだ。それを受けた極端·いびつ世界で、その煮詰めとそのあまりの表現·姿勢への観る側の醒め方までを、総体としての、作品としての一応決着かもしれない。その全体は、デレンのブードゥ教の熱狂の特異さを扱ったその最高作を思わせる。
被告人は、子供を不要と思いその思いに任せたというが、15ヶ月間の愛情は代えられない物となってた。恒に死なせた後も、彼女は娘と一体、そのごく近場の存在を感じ続けた。母と娘の特殊で、生物そのものと言える、互いに繋がり絡まって留まりない関係。母親の内部から娘は生成され、逆に娘の血や細胞は母の身体に送られ、遺ってゆく。それは限りなく入り雑じり繰り返され、正体を失ってく。
作家の引込み思案窺える父が生きてた15年前のホームビデオ。そこからの姉妹や母との関係の尾ひれや今の胎児を宿した自分の体感、そしてホームビデオが拡がり、嘗ての現実のイメージも生まれ張り詰めてゆく。忘れたような過去の未熟な自己と家族を浮かび上がらす内面性と、街頭でざわつき踊るような若者と方向も存在も逆に交錯しながら浮いたような自分の現実の感触が、法廷で受けたものの引き続きで日常を染めてゆく。
弁護士のキャラというより作品を乗っ取ったような語りも、主要人物のあり方の反映である。
2015年だかのサントメール市での、セネガルからの元留学生の、嬰児殺害事件の法廷と、それを広い話題性を持たした作家活動に結び付けようとして、傍聴した同じセネガルからの血を引くのか、女流作家の、内なる欺瞞·出自·(未来の)母としての、呼応を、主観と客観の幾つかのレベルを同質のものとして描き上げた、カメラアイを人間の眼による先入観区別を排した、異次元かメディアを外れた根っこに触れ浚うものと化した作である。デュラス·パゾリーニ作の作中人物を通してのかなり長い鑑賞は、恥や屈辱を越える別種の個の想いの強さは、あからさまな感じもするが、そのストレートさが本作の力か。
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その映画としていいのかどうか分からない、判定する物を持てない侭見終わったが、ポーリーの新作『ウーマン~』は、薄暗い限られた時間の屋内での女たちの文学的ディスカッションが中心の為というより、明らかに意識的に彩度を落とした淡いトーンで日中野外まで貫かれた朧ろな印象が育まれ続け、また変容もし、ラストには出てゆく女たち(+ローティーン迄の男子)の動的で活力の舞う姿にまで進み届く映画的快感(それまでに対峙しながら語られる言葉と老若名女優らの表情の、文学性も素晴らしい)は、やはり映画はこうでなくてはと思う。
これも2010年代(初頭)の話とは信じられない、衣装や生活レベルの古色蒼然、アーミッシュに近い共同体の話か(南米の実話らしい)。眠らすか何かしての、男たちの暴行が明らかになり、逮捕された男の保釈に男らが駆けずり回ってる、限られた時間に、(過去もこのような亡霊的な朧ろ認識に置かれての、暴行·妊娠が、普通に続いていた、に忍従·声を上げるを控えてた、を日常の一部とされてきた)女たちは代表三家族(7.8人)による、方向決定を秘かに行う。①(該当)男らを赦すか②残って闘うか③出てゆくか、①はこの村の成立ち自体か問題と外され、逃げるのではないと③が採択されてゆく。子供でも、そもそも暴力的で短絡的に嵌まってる男の子は、思春期以前の者しか連れていかない。男と女は、この際「距離」を持つことが重要で、この会議に女たちは無学で文盲な為に、書記としてセットされた、穏やかで全てを理解してる男に、残った男の子への「教育」が託される。大事なのは、「子(娘)らを護る事、信念を貫く事、愛」で、信仰上の(結局男らを)赦す事(の現状維持)より、「平和主義に基づく善」の行使が基盤となる。
短く鋭いイメージ的回想蘇り挿入、暗めの納屋での議論と対立進展のキャラ位置のコンポジション、そこから開ける野外光景や人の上下行き来の動感、半イメージ的広い畑や野を走り通す若い娘らへのフォロー移動の飛翔感、ローやアップでの大地に立つ人の威容、らの筆致も、練り込まれ研ぎ澄まされた会話と同じく、洗練され、一級。

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