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理想郷のarchのレビュー・感想・評価

理想郷(2022年製作の映画)
3.5
大傑作『おもかげ』の監督であるロドリゴ・ソロゴイェンの最新作。
脚本自体はフィルモグラフィの早い段階から構想されていたそうで、実話からの着想を普遍的な物語に落とし込んでいる。
言ってしまえばこれは『わらの犬』のような田舎の村民と余所者の対立の物語である。そこで生きるしかなかった人の当たり前の防衛本能(及びプライドや意地)と価値観の違う"入植者"、或いは"ムラ"という概念のない「権利と意志」がいい意味でも悪い意味でも担保された人々の"開拓精神"には、鼻から対立構造は内在しているといえる。
それは現在におけるコロナ禍で急増したらしい田舎への都会民の移住者の話も想起させられるし、自国民と移民、西部劇における開拓者たちと原住民の関係にも重ねることはできる。もっと身近な場所においてもそこにコミュニティがあれば、古参と新規の二項対立は可視化されずとも内在するはずだ。
そういった二項対立を本作は、2つの視点(2部構成)で描いてみせた。
1つの視点はアントワーヌの視点、つまり男の視点である。1部では男の対立がメインに置かれ、双方の攻撃性(片方はわかりやすい嫌がらせ、もう片方は撮影や通報といった正当性のある方法)を原因にして、苛烈化していく様が描かれていく。双方に言い分があり、分からなくもないという中立的な視点で語られ、事態がどう悪化していくのか、反応への追反応が相手の気を逆撫でしていく様がよく考察されている。
印象的なのは、あのバーでの一連の一幕。あそこに行かなければひとまずは、顔を合わせることがないはずなのに、アントワーヌは行ってしまう。言いたいことがあれば言いに行ってしまう。彼は基本的に村人よりも理知的なはずなのに、自身の正当性への自信と無駄な"男のプライド"によって、事態を収束させず拡大させていってしまうのだ。あのバーはまさに「西部劇」な対立が行われる場として、正面衝突でしか物事を解決出来ないという男性的心理が表象されている。だからこそあそこに女性は居ないのだ。

そんな対立が加速し、より直接的な暴力に発展していくのは自明であり、その結末には冒頭の野生の馬を締め付け、大人しくさせる様をオーバーラップさせるような殺人シーンが描かれるのだ。
あの場面からは、「どちらが野獣なのか」という問いかけ、そして言ってしまえば「どちらも野獣なのだ」という意図があると思う。
ティタンの両者に懐いているところなんかも「同じ穴のムジナ」的な同属性を表現した描写だといえる。

そしてその「男の対立」の果てにアントワーヌは殺され、肝心の二部へと入っていく。

この後半のパートは『おもかげ』をまず彷彿とさせた。『おもかげ』も最初の印象的な長回しを1部とするなら2部構成であり、2部では喪失から既に時間が経ち、喪失が人生に定着してしまったタイミングから物語が始まる。本作においても、アントワーヌを失った直後のリアクションは空白にしておき、喪失と対する時間をカメラは画面に収めていく。
そこで浮き彫りにされるのは、"取り残された人"の姿だ。男たちの対立、言い換えれば、"男たちの勝手"に、振り回された挙句に、取り残され「そこに生きなければいけなくなった人達」になってしまった女性の姿だ。それはその村で「生きるしかなかった人」の姿にも相似していき、尚且つ皮肉なことに「ここは故郷だ」という言葉はその土地との因縁を結ぶことで本当になってしまう。
1部ではアントワーヌの視点でしか描かれなかった妻オルガにフォーカスされることで、描かれなかった女性の物語が綴られ、対立の焦点は娘と母の間に変化していく。そこで可視化される巻き込まれ、取り残されたという視点が本作を多層化させていて良かった。

二部での彼女の事件への対処の仕方はアントワーヌの直接的な対処とは全くといって正反対の忍耐のものであるというが、とても良い。兄弟2人を無視し、その親と話すシーンも示唆的で、一部との対比になっている。

対立における双方の正当性の是非に着目していては、事態は解決しない。確かに根本的な解決に両者の意見をかち合わせることは大切なのだろうが、「対立を回避」することの重要性を忘れてはならず、引いてはそれが自己を守ることに繋がることを肝に命じなければならない。いつの時代でも、コミュニティケーションの軋轢は瞬間的にヒートアップする。熱しやすく、冷めにくい、だからこそ、どう苛烈化させないかが大事なのだろう。
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