ヨーク

ヒューマン・ポジションのヨークのレビュー・感想・評価

ヒューマン・ポジション(2022年製作の映画)
3.8
本作『ヒューマン・ポジション』はアンダース・エンブレムというノルウェーの、恐らく新鋭であろう若い監督の作品でこれは予告編を始めて見たときから、あぁ~! という風に感じ入るものがあった。別にあぁ~! 面白そう~! と思ったわけではなく、まぁ結局観ているので興味は惹かれたわけだが個人的に好きなタイプの作品というよりも、これは(俺はそれほどでもないが)刺さる人にはとことん刺さるタイプの作品だろうなぁ~、と思ったのである。
どんな感じなのかは俺が書くよりも予告編を見ていただいた方が百聞は一見に如かずなので割愛。さぁ予告編見ましたか? 見ましたね? 見たのなら何となく俺の言いたいことも分かるでしょう。いやこれは何と言いましょうかね、やや棘のある言い方になってしまうが自称(自称)映画好きがハリウッドなんかの娯楽大作や日本の漫画原作のアニメ映画とかをこき下ろしつつ、こういう映画が本物()の映画なんだよとか言い出しそうなそんな雰囲気があるなぁとかね、棘のある言い方をすればそういう印象を感じなくもなきにしもあらずんば虎児を得ずみたいなところはあると思うんですよね。要は通ぶれそうな映画。本当()の映画ファンならこれは評価するでしょ、みたいなことを言い出す人がどこからともなく湧いてきそうな映画ですね。なんとな~くそういう雰囲気は分かっていただけるのではないだろうか。
では実際に本作を観て、そのスノッブさが癇に障って楽しめなかったのかというとそんなことはなく、基本的に面白かったし割と好きな映画でしたね。これは自分自身ちょっと意外だった。観る前は雰囲気と映像だけはいいけど中身は気に食わなかったよ、という感想になるのではないかと思っていたのでうれしい誤算でしたね。
じゃあ肝心の内容はどのようなお話なのかというと、ぶっちゃけ物語と言えるほどのものはない。一言で言えばノルウェーのオースレンという町に住む一組の女性の恐らく同性愛カップルであろう二人の日常を描いたもの、ということになるだろう。正直それ以外には何もない。
恐らく、とわざわざ断っているのはメインとなる二人の女性(20代半ばから後半くらいだろうか)は同棲していてやたらとスキンシップがあったりそれこそ肌を寄せ合って寝転がったりしているのでそのように見える、というだけであって二人の関係がハッキリとセリフなどで説明されたりすることはない。一般的な劇映画なら二人の関係がこじれて別れそうになってどうなるか…みたいな展開がありそうなものだがそんなのも一切ない。映画の最初から最後まで二人の関係が危うくなることはない。じゃあその二人の家族が同性愛に反対するかというと、そんな展開があるどころか二人の家族は登場すらしないし両親が健在なのか、兄弟がいるのかどうかすら作中では言及されない。ではでは二人が仕事関係でトラブルに巻き込まれるのかというと、二人のうちのさらに主役格の人物は地元の新聞社の(恐らく)期間雇用社員というめちゃくちゃ波乱のストーリーを展開できそうな設定であるにも関わらずに特に何も起こらずに淡々と仕事をこなすのである。つまり繰り返しになるが二人の同性愛カップルのささやかではあるが幸福な日常以外には何も起こらないのである。
じゃあちょっと別の観点から映画を観てみるか、となると本作は色々と過去の巨匠たちからパッチワークされた作品である。パッと思いつくのはあまりにも静かなフィックスの画として小津安二郎とか、つづら折りの坂道を象徴的に使うアッバス・キアロスタミとか、北欧映画界の大先輩であるアキ・カウリスマキとかの影響は確実に受けているであろう。しかしそういうシネフィル的映画好きにウケそうな要素だけで構成された作品なのかというとそうでもなく、非常に現代的な問題も描かれていると思った。それも物語としては何も起こらず、静かな画の力だけで描いたのはすごいと思う。まぁ余りにも静かすぎるフィックスの画しかないのでかなりのスヤスヤ映画だったが、そこに描かれていたものが何なのかというと個人的には居心地の良さの中にある居心地の悪さだと思いましたね。
なんだかただの言葉遊びのように思えてしまうが、本作は徹底して二人の女性の日常だけを描いているにも拘らず、驚くことにPCやスマホは画面内に出るものの昨今の映画にありがちなSNSの描写どころかインターネットを活用してるシーンすらなかったんですよ。それが何故なのかというと、俺的には二人の世界はこの映画の枠の中で完結しているからなのだと思った。本作はフィルマークスなどで感想を漁ると、絵画的であるとかフォトジェニックであるというような感想が散見されるし俺もその意見には同意するほどに一つ一つのフィックスの映像が非常に高い完成度で画になってて額に入れて飾りたくなるほどなのだが、それはとりもなおさずそこに内部と外部を別つフレームがあるということなのである。つまり本作のメインである二人はその枠の中に閉じ込められていて外部から隔絶されているとも言えるのではないだろうか。
本作の重要なモチーフとして椅子というものがあって、それは休む場所、ひと時の安息を得る場所として描かれてそれが他にはない特別なものであることの愛おしさとして描写される。ひいては二人がその関係性の中で作り上げた小さな世界の美しさや稀少さ、つまり居心地の良さにも繋がるのだが、それは大切で守りたくなるものであると同時に二人の世界の狭さやある種の閉塞感も描いていると思ったんですよね。俺としてはこの『ヒューマン・ポジション』という映画でそこが一番面白いところだった。
二人だけで誰にも邪魔されずに生きている空間というのは他に代わりがないほどに稀少で大切なものではあるけど、それっていつまでも続くものなのだろうか? 自分たちだけがこの楽園のような場所にずっと居続けることができるなんてことがあるのだろうか? という疑問は主に主人公が新聞社の仕事の取材で否応なしに関わる外部を通じて、変貌していく町やいつ何時やってくるか分からない不慮の事故といった風に提示されているのだと思う。それは当代風の言い方をすれば、この社会の持続性を本気で考えるなら好きな人と二人だけのミニマムな世界の中で居心地の良い場所で座り心地の良い椅子に座っているだけでいいのだろうか? という批評性も帯びている作品だと思うんですよね。あの狭い世界観にある閉塞性というのは多分狙って演出しているのではないかと思う。俺としてはそこがこの映画で好きな部分でしたね。
この居心地の良さは永遠に維持することはできないだろうということが常にどこかにある映画だったと思う。それこそがタイトルでもある『ヒューマン・ポジション』ということなのかもしれない。本作は徹底してメイン登場人物二人の生活を描いただけの映画だが、映画の冒頭は高台からオースレンの町を見下ろすシーンから始まるのである。それはささやかで慎ましい幸福な生活を送る二人の外側には全く別の表情を持つ町があるのだと言っているように俺には思えた。単なるミニマムな生活の映画としては大して面白くなかったけど、そういう視座を持つとこれは興味深い映画だなぁと思いましたね。面白かったです。
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