のぢ

ゴジラ-1.0ののぢのレビュー・感想・評価

ゴジラ-1.0(2023年製作の映画)
4.0
ゴジラ-1.0終わり
戦後、生き延びた人がゴジラという戦争の化身みたいなものに生活を奪われ…となると、自ずと答えは出てきてしまう…と言うくらいにはド単純なストーリーラインはちょっと耳タコ。非常にわかりやすい反戦映画になっていました。そこの耳タコ感が-1.0点。でも神木隆之介の我を忘れた演技と安藤サクラ全般はすごく良かった

さて、この「ゴジラ -1.0」は今までのゴジラではなかなか見られなかった「本当の意味での一般人」が主役で出てくることに意義があったのかなと思う。
アメリカにひれ伏し、国民に正しい情報を伝えない官でも、解体されて影も形も無くなった軍でもない。「いま、そこにいて、生きている」民の力を結集してのゴジラ撃滅作戦を、死に損ねた特攻兵や、命からがら引き揚げてきた戦後復員兵が主役となっている。
その彼らが争いの連鎖を断つ・自らの過去にケリをつけ、未来のために戦う「マイナスからゼロに向かって歩きだす」という視点は過去作に見ないもので、今作の最高に良いところだと思う。
この「ゴジラ -1.0」は「シン・ゴジラ」とは全く真逆のことをやった結果生まれた「傑作」だと言える。

さて、ゴジラが真昼の銀座を蹂躙しつくすシーンは、日比谷で見たこともあって大興奮限りなしでした。和光の時計台をなぎ払い、日劇を紙くずのごとく吹き飛ばし、華の銀座を灰燼に帰す熱線と爆煙の迫力たるや!
初代ゴジラのオマージュであるラジオの実況中継にもうむ、と唸らされてしまった。
上映後に気づいたら旧日劇前で立ち尽くして、ゴジラの大きさ、恐ろしさを思い出していた自分いるほどには、あの破壊の嵐に見とれてしまった

そしてゴジラと言えば…必殺の「放射熱線」
'90年代「VSシリーズ」より続く熱線の見せ方、勝手に「熱線大喜利」と呼んでいますが、ゴジラの大きな魅力の一つと言っても過言ではなく、10年代、20年代とハリウッド、シン、アニゴジなど、様々なゴジラ作品で大きな見せ場となっており、それぞれの監督の創意工夫が如実に現れる場面でもあります。

今回の熱線は座布団1枚!背びれをそういう風に使うとは思ってなかった!あたかも核融合炉の制御棒の如き威容は格好いいの一言につきます。その背びれがしっぽの先からガゴン!とせりあがって行き、大きく息を吸い込んでから吐き出す様は、過去一「怒り」を吐き出しているように見えた。

そして今回ゴジラは無敵の生物ではなく、あくまで超回復能力を持っただけの生物に過ぎないというのも印象的でした、今までのゴジラであれば、艦砲射撃の直撃くらいでは足止めにもならなかったでしょうが、今作はしっかり肉をえぐられるくらいのダメージは受けており、機雷もなんだかんだ怪我を負わせる位はできていて、再生後は人間のかさぶたのように跡が残っているなど、生物的な要素が強調されていたように思う。

そう考えると熱線を乱発出来ないのは、自らの体内を焼くことになるからとも考えられる。熱線で焼け爛れた体内を回復させるのに時間がかかっている事が考えられるのではないだろうか。熱線を吐き出す時に炉心(?)に近い背中の大きなヒレから展開するのではなく、しっぽの先端から展開していくのは、遠いところから制御外した方が何かあった時に安全ということではないかと考えてみた。

つまり文字通りに身を焦がしながら熱線を撃っていると考えると、再生まで迂闊に撃てない。撃つ過程でイレギュラーがあったら自爆することを本能で悟っているから乱発しない。そこで万が一爆発しても、切り離しの効きそうなしっぽの先から背びれを展開して発射シークエンスを踏んでいくのだと思う。

そうまでして人間への憎悪に、文字通り身を焦がす怒りをもって上陸するゴジラの姿はあまりに恐ろしく、同時に痛みを声を大にして叫ぶようであまりにも哀しく見えた。

そして、個人的趣味の観点で言えば、苛烈な太平洋戦争を生き残り、戦後台湾とソ連へ供与予定だった「雪風」「響」はゴジラを相手にしても生き残り、やはり幸運艦の名に恥じぬ活躍とサバイブっぷりはたまらなかった。
さらに大戦時に戦場を飛ぶことが叶わなかった「震電」が大空を縦横無尽に駆け巡ったのはたとえCGでも嬉しかったし、涙がこぼれました。
のぢ

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