マインド亀

ゴジラ-1.0のマインド亀のネタバレレビュー・内容・結末

ゴジラ-1.0(2023年製作の映画)
2.0

このレビューはネタバレを含みます

「絶賛」の声に日本の右傾化を危惧し、暗澹たる気持になる、『ゴジラワースト1』

●『ゴジラ -1.0』を観てからの数日間、どうにかなってしまうほどの危険な精神状態であることをご報告いたします。
というのは、私の周囲やYouTubeの批評動画、Filmarksのレビューにおける世間一般の絶賛コメントの多さと、観て早々に自分の中で「トホホ映画」「本年度ワースト」にノミネートしてしまった評価とに、あまりにも落差があり愕然としてしまっているからです。こうなるともう、、自分の感性を延々と疑い続けるしかなくなってきます。一方で、少ないながらも手厳しいレビューを観て精神を安定させてもいます。その両方の繰り返しに陥って、ずっとゴジラのことばかりを考えているのです。

「ドラゴンクエスト」「ドラえもん」「ルパン三世」「寄生獣」「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」など、自分が慣れ親しんだキャラクターIPをこれまでに何度も山崎貴監督によって蹂躙された感覚に陥ってしまっているのは私の被害妄想かもしれません。
しかし、予告編の銀座壊滅シーンが大変期待できる内容だったので、今回のゴジラはそんな私の偏った見方を治すいい機会と考え、観に行って良かったのなら、盛大に褒めよう、そしてこれからも山崎貴を応援しよう、と思っていました。
なのに、です。
イオンシネマのレイトショー上映、「俺こそがゴジラだ!」と言わんばかりに、エンドロールでゴジラの足音とともに画面中央に山崎貴監督の名前が止まったとき、あまりに悔しくて涙が出ました。またしても、自分の好きなフランチャイズが山崎貴の「俺の〇〇」になってしまった…そして閉館状態のイオンモールの出口が分からず、ふらふらと数十分歩き回りました。そして、次作への意欲を語る山崎貴監督のインタビューを観てしまい、とてもじゃないけど正気を保っていられる気がしませんでした。

●正直に言って、良い点はたくさんありました。銀座でのゴジラ大暴れや、冒頭の突然現れる若ゴジラなど、自由な視点によって今までにないゴジラを作り上げていたと思います。VFXは白組も携わった『シン・ゴジラ』を経て、しっかりとゴジラの恐怖を味わえるまでのクオリティにはなっていました。

●しかし、今回のゴジラは、あまりにも人間ドラマがひどすぎるのです。いえ、何か話の構造自体がおかしい。そして危険な香りもする。戦後を扱っているのにも関わらず、志が全く高くない。今の日本は右傾化が進んでいて、歴史を繰り返すのでは?という陰鬱な気分になる作品でした。
ゴジラそのものの登場時間が少なく、話から置き去りにされていることからわかるように、人間ドラマを中心に据えたゴジラを作ろうとしているのは明らかです。
なのに、その肝心の人間ドラマのマイナスがひどすぎるのです。良い部分からあらゆるマイナス面を差し引いて『ゴジラ-50.0』なのです。私はこの人間ドラマ部分がすべての足を引っ張ってしまって、観ることが辛くなってしまいました。

●まずもって、出演している役者のみなさん、こんなに演技が下手な方達でしたっけ?
というか、役者のみなさんは全く悪くないとおもうのですが、もう見たままをセリフにそのまま話すのやめませんか?
映画という、セリフがなくても心情を伝えるのに最適なフォーマットに、全部説明セリフをつけるの、いい加減やめませんか?
雨が降ってるの観たらわかりますよ。それにわざわざ「どしゃぶりだよー」と付け加える野暮さ…観ていて本当に辛いんです。
そしてそれぞれの演じるキャラクターの大味さ。
あまりにも「火垂るの墓の西宮のおばさん」をトレースしたような安藤サクラ、「ハッハー!!」を連発する大振りな佐々木蔵之介、「生きなきゃだめです!」などとガンガン責め立てる浜辺美波、心に傷を負ってる割に饒舌すぎる神木隆之介、……などなど数え切れません。
山田裕貴に、「ゴジラとの戦いには行かせない」と伝えたあとののくだり、黙ってりゃいいものをわざわざ「あいつには戦争を経験してほしくない」的なセリフをはくのとか、もう観客を舐めてるとしか言えない説明セリフ。(結局山田裕貴来ちゃうんですけどね…(笑))
お前ら、思ってることを全部口に出さないと気が済まんのか…。

挙句の果てに子役にまで、ゴジラ退治に赴く神木隆之介にギャン泣きする演技をつける始末…絶対にカメラに写っていないところでつねったんじゃないか…と思ってしまうくらいでした。

●そして、結果的に死のうが死ぬまいが、特攻と言う題材を持ってくる時点で、あまりにも安直過ぎる気がします。
アニメ版三部作エンディングで、主人公がゴジラに向かって特攻するシーンが物議を醸しましたが、今作のように助かったら助かったで、物語が陳腐なものに感じてしまいました。
つまり特攻で敵を倒す、というのは物語を安易に盛り上げるか、冷めてしまうかの、諸刃の剣なんですね。しかもどちらにしても今の時代良い効果が得られない。それがさらに、「実は生きてました〜」っていう内容だったらなおさら馬鹿らしい。
話の装置として扱ってはいけない話のような気がします。特攻を扱うなら、もっとちゃんと扱うべき。そこに至るまでのドラマと演技をきちんとすべき。

話は逸れますが、最近映画館に行けば、絶対見る『この花が咲く丘で君とまた出会えたら 』の宣伝も、観るとゾワゾワするんですよね。福永遥がタイムスリップして、、特攻隊員に恋をする話で、「今の日本があるのは、こういった人たちがいたおかげだ」的なことをインタビューで言うんですよ。
映画の内容を観てないのでなんといえませんが、その言葉にゾッとしてしまうんですね。もはや現代日本では、特攻は、寿命残り僅かな病魔、と同じように、感動を生み出す装置でしかない。そんな薄ら寒さを感じるんです。

じゃあ、神木隆之介はゴジラに対して特攻をやめて生きることを選んだじゃないか、生きるということは反戦を意味してるんじゃないのか?と言われるかもしれません。
しかし、神木隆之介は、青木崇高に脱出装置の説明を受けるまで明らかに特攻で死のうと決意してましたよね。自ら脱出装置を頼んだわけじゃない。青木崇高が勝手に脱出装置を着けてくれて、生き残ることに対する許しを受けたから、神木隆之介は生き延びた。
前段で、「特攻を扱うなら、もっとちゃんと扱うべき。そこに至るまでのドラマと演技をきちんとすべき。」と書きましたが、「生きることに決めた」のなら、そこに至るまでのドラマを丁寧に描くべきだと思うんですね。
だったら、青木崇高に生き残ることを説得されるシーンはめちゃくちゃ重要じゃないですか。神木隆之介が脱出装置で「生きる」と判断した描写が全く無いので、そこで、「俺は死ななくていいのか」という葛藤が描かれない。ただ単に、「実は生きてました〜」というサプライズにしかならない。
なんかそこに、「特攻をしてやる!」と「特攻なんて馬鹿なことだ」という反対の矢印が同時に出ていて、チグハグな気がするんですよね。
そもそも、青木崇高が神木隆之介を許してベビーターンした理由も描かれない。本来なら神木隆之介が、なぜ自分は特攻できなかったのか、ゴジラに攻撃できなかったのか、を吐露するところもないので、二人が分かり合う理由が全くわからない。
むしろ神木隆之介から「特攻なんて馬鹿なことはやめましょう!娘のために生きるんです!生きて帰りたいんです!だから脱出装置をつけてください!」くらい言っても良かったんじゃないか、とおもいます。
もしくは神木隆之介は、特攻で死ぬことを決心していたとして、BLACKHOLEのお便りにあったように、実は青木崇高が密かに特攻と同時に脱出できる装置が取り付けてあって、神木隆之介は青木崇高に生きることを選ぶように仕向けられた、としていればドラマ的に盛り上がったし、矛盾はなかったのかもしれません。

またもや話は逸れますが、最近見た『福田村事件』。この作品の井浦新の役は、まさにゴジラにおける神木隆之介なのだと思います。そして『福田村事件』の井浦新の妻役の田中麗奈に対応するのが、浜辺美波、ではなく、青木崇高。(神木隆之介の「何もすることができなかった」罪に対して一番被害を受けたのは青木崇高だから、だと思っています。)
『福田村事件』における井浦新は、最後に戦争中の悪魔のような所業を田中麗奈に打ち明け、その罪の意識を吐露し、そこで初めて田中麗奈から同情を得る(決してセリフで「許した」とは言いません。むしろ、罪の意識を助長するようなセリフを言います。)。
同じ意味で、青木崇高が神木隆之介に「生きろ」と言うからには、ちゃんと二人の和解に向けた話し合いがいるはずなんですね。それがなんだか、ゴジラを「死んでも」倒す、というベクトルだけの話し合いにしかなってないから、和解のロジックがおかしくなる。
もしくは、青木崇高側の心情の変化の背景を描くか。
ちなみに、『福田村事件』の井浦新は、朝鮮半島での所業による心の傷から、全然コミュニケーションを取れない人物になってます。神木隆之介が目指すべきキャラ設定は、むしろこちらのほうが良かったのでは?と思いました。

●特攻を扱うことも含めて、この作品のテーマは、「生きろ、死ぬな」という『もののけ姫』から脈々と伝わる昔ながらのテーマ。それ自体はいいんです。
ですが、市井の人々になった人々がもう一度、一念発起して闘いの中でひと花咲かすという話になってしまっているのが変なんですよね。恐らく、政官主導、民間人不在でゴジラを退治したシン・ゴジラからの視点の変更を行ったんだと思うのですが、そこで死ぬかもしれない戦いを、市井の人々から始めていく、これがどうしても私にとっては、きな臭い感じがして仕方がないんです。
「民間人であろうと、男たるもの、国を、身近な人を守るためには、命をかけて戦え」、というテーマがあるように感じます。まあ、大体のアクション映画ではそんな「命をかける」というテーマは普通なのかもしれません。しかしながら、反戦をテーマに持ったゴジラを、戦後の時代に設定を移し、反戦を謳っているにもこかわらず、民間人が戦いにその身を投じていくことを描いてしまっている。
戦いに身を投じることでむしろ生き生きして、高揚してる感じがするんですよね。『見ろよ、いい顔してやがる』みたいな。
もっと、「死にたくない、戦いたくない、なんで俺が…」みたいな顔をしながら、それでもゴジラに殺されたくないからやるしか無い、みたいな方が正解な気がします。

なんかテーマと、それに対するドラマがブレブレなんですよね。
「これは死ぬための戦いじゃない、生きるための戦いだ」って言葉では言ってるんですよ。言ってるんですけど、戦争から生きて帰ってきた民間の人たちが、まるで戦時中をなぞるような、敵の情報が不正確な中で、ゴジラとの戦いを始める。まるで太平洋戦争の軍部の愚かさをなぞってるような皮肉ともとれる話ですが、むしろ無駄死にに向かってる矛盾がありますよね。全然違いが見えない。
もちろん情報技術や高度演算が無い時代だから、これより突っ込んだ情報収集ができない、ってことなんでしょうが、昭和舐めんな、って気はしますけどね。日本政府やGHQ、アメリカの研究機関をあえて出さないことで、政治色を消したんでしょうけど、かえってそれが不自然になってしまっている。政官側にも民間へ協力してくれる、はみ出し者がいるってのはだめなんでしょうか。全ての力を結集して一番の結論を出して圧倒的な作戦の成功でゴジラを倒す。まだそれなら理解はできます。
もしくは、政府主導の作戦が、太平洋戦争をなぞって精神論でゴジラに突撃、ゴジラによって政治家や軍人が阿鼻叫喚の全滅。そこで、残った民間人主導で客観的データに基づく、できるだけ死者を出さない、生きるための作戦が成功する、というほうが、戦時における人間の愚かさを表現できたのではないでしょうか。

●シネフィルであるスコセッシがアメリカの映画界の古くからのお家芸である西部劇をこの現代に初めて撮った作品が、今まで虐げられてきたネイティブアメリカンの人々を主軸にした、アップデートされた西部劇であったように、山崎貴監督は「怪獣映画」と「戦争映画」をアップデートすべきでしょう。特撮を重心においた怪獣映画の技術的なアップデートはだいたいできている。だとしたら、浜辺美波や安藤サクラや子供達のような、馬鹿な男たちが始めた戦争の尻拭いをさせられてきた市井の女性や子供達を主役にすべきでしょう。つまり「この世界の片隅に」meets「ゴジラ」です。
ゴジラを退治しに行った政府や軍部や男たちが壊滅してから、どうやって彼女たちがゴジラの暴虐からサバイブしていくか、そんなものを観たかった…と思いました。
(多分、監督の作風として、あんまり女性の造形に興味が無いんだなあという気がします。本作にしても、『ドラゴンクエストユアストーリー』にしても、『スタンド・バイ・ミードラえもん』にしても。男がゲットすべきトロフィーワイフに近い存在。ちなみに浜辺美波も安藤サクラも、物語の途中で劇的にキャラ変するのも、物語の都合のようで、全く良くわかりません。女性は男に都合よく描かれるのが監督の作風のような気がします。)
戦後の人間ドラマを描きたいならそれくらいしてほしい。
人間ドラマを排除して、怪獣とその作戦のみをドライに描く『シン・ゴジラ』は革新的だった。そこから生まれる感動があった。
もしくは、怪獣からひたすら逃げる人々視点の 『クローバーフィールド』のような映画でも良かった。人々が感じる恐怖がビビットに伝わった(ちなみに『クロバーフィールド』は私にとってもマイ・フェイバリット怪獣ムービーです。)。
中途半端な人間ドラマを排除した怪獣映画が観たい。山崎貴監督は単に大好きな戦艦がゴジラと戦うシーンを取りたいだけでしょ?だったらそれだけでいいじゃない?とか思うんですが。

●あと、脚本の緩さによって、だいたい起こり得ることが想定内というのも、私が辟易した理由の一つです。
例えば、安藤サクラが電報を受け取った時点で、浜辺美波が、生きてることは容易に想像できるでしょう。にも関わらず、それをラストシーンまで引っ張って、生きている浜辺美波を最後の最後に映す演出がユル過ぎて吐きそうになりました。

また、今にも放射熱線を吐こうとするとんでもない緊張感のあるシーンでは、誰もが「絶対に神木くんが特攻するんだ!」となっていたと思います。そこで神木隆之介がキター!ってなるんですが、それがまた結構な距離から飛んで来るんです(笑)ここまで積み上げてきた緊張感、ぜろ〜〜!

なんでしょうね、この詰めの甘さ。

あと、山田裕貴が民間の船を集めてダンケルクよろしく戦艦を引っ張るシーンがあるんですが、いつの間にか戦艦と船を結ぶ紐が表れます(笑)

まだあります。
ゴジラが来ると分かってるのに、何も言わずに浜辺美波を銀座に送り出して、家で子供と遊ぶ神木隆之介。ゴジラが来ると知っているアドバンテージを何も活かさないのはなぜなんだ…

放射能の恐怖に対しても鈍感過ぎるのも気になります。ブラック・レインを浴びるシーンは、なかなか攻めた表現ですごいと思いました。なのに、放射能に対する恐怖はそれ以降何も無い。浜辺美波、被爆してますよね?

それと、何だったか忘れたのですが、同じ説明をそのまんま2回繰り返したところがありました。流石にそれを見て、脚本の破綻が、修正されていないのか…?と思ったのですが、ひょっとすると大事なことは2度言う主義なのかな…と思いました。二度目の鑑賞で確認したいと思います。

それ以外にも、脚本のゆるさは挙げればキリがありません。

●一方の、肝心の特撮部分ですが、いいと思った部分は予告ですでに見た銀座のシーンが全てで、あとはMEGザ・モンスターばりに海面に浮かぶゴジラが序盤と結末に見えるだけでした。全身が映るシーンがあまりにも少なすぎました。
しかも引きの絵でみたゴジラは街の風景から浮いており、また歩行のキャプチャーが、ロボット恐竜展のように不自然。
流石に『コカインベア』の半分の予算ではなかなか厳しいのかなあ…と思いました。

そして一番の盛り上がりであるはずの作戦が、海に沈めてから、その後急激に浮かぶだけという極めて見た目に地味すぎる作戦。
シン・ゴジラのプロジェクトXのような展開をなぞっているだけに、新幹線爆弾のような派手さや面白みのあるシーンが無いのは、結果的に映画そのもののつまらなさに繋がっている気がします。やっぱり全身写ったゴジラ観たかったなあ…

●ここまで悪いことばかりを書いていてまだまだ悪い部分が書けてしまうので、さらに精神状態がおかしくなってしまいそうです…これがまた、大ヒット、というのですから、同じような右傾化甚だしい、お涙頂戴の戦争映画が邦画に増えていくのだと思うとさらに陰鬱な気持ちになっていきます。
恐らく、アメリカあたりの海外ではヒットするかもしれませんね。だけど、それでいいのか?ちゃんと未来に残る傑作を作るという高い志は日本映画にもう残ってないのか?
ここまで無茶苦茶な文体で書いていて、はっと我に返りました。
逆にこのレビューを、ご覧になられている皆様、絶賛されている皆様、どうかあまりにも汚すぎるレビューで申し訳ございません。気分を害されたなら申し訳ございません。お許しください。
マインド亀

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