Kuuta

君たちはどう生きるかのKuutaのネタバレレビュー・内容・結末

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

【2023/07/16追記】
1回目の鑑賞で飲み込めなかったセルフオマージュについて考えがまとまり、私なりの整理はできました。

2つのテーマがくっついていると考える。①宮崎駿のアニメーション論②虚構による現実改変

①宮崎駿のアニメーション論
宮崎駿は子供の頃に観たアニメ映画「白蛇伝」に感動し、アニメーターを志した。実写映画はどこまで行っても現実の歪みから逃れられないが、全てが虚構のアニメーションは、善や美をストレートに描き、世界を肯定できる。これが、彼のアニメーターとしての原点とされる。劇中の三角錐や円柱は、善や美のイデアであって、それらを積み上げる事が、宮崎駿のアニメ作りだった。

宮崎駿が厳しいのは、三角錐や円柱をただ描いたとしても、無機物に命を吹き込んだことにはならず、イデアだとは決して認めない(アニメーターにOKを出さない)点だ。アニメーターは、同じ白い円柱だとしても、積み木と墓石を、生と死を、描き分けなければならない。それが区別できない人に、アニメーションは作れない。

後継者に見込んだ眞人は、それが出来る人だった。しかし、彼は美しい世界を作ることよりも、現実を生きる道を選ぶ。宮崎駿は後継者の不在を受け入れ、ジブリ帝国は崩壊する。ヒミが大叔父さんに感謝を告げ、積み木は宇宙に消えていく。眞人は一つだけ積み木を受け継ぐものの、それを生かすも殺すも彼次第だと投げかける。

後述するように今作は宮崎駿を虚構(アニメーション、母の死)から解放し、新たな自分と次世代に希望を託す未来志向の話だと思うが、ヒミが「振り返って」積み木を見送るあのシーンは、個人的に今作で一番グッと来るところ。

(こういうメタ読解は岡田斗司夫とかがやりそうですげー嫌なのだけど、今作で宮崎駿が自分のアニメ世界を終わらせるという意味は多少なりともあるでしょう)

②虚構による現実改変
①はあくまで付随するテーマであって、こっちが本筋だと思う。

冒頭からラストショットまで、画面左へ人物が動く。左方向に現実世界の時間の流れ、生のイメージが置かれ、反対に右へのアクションが、虚構や死の世界と結びつけられる。

今作で初めて右方向へ動くキャラは、虚実の仲介者である青鷺だ。廊下から庭へ飛び去るシーンで、カメラが右方向へパンしながら、青鷺を捉えている。池に着水したショットでは、青鷺は右側へ歩き、フレームアウトする。眞人が塔に気づく場面も右へのパン。

眞人は、左の現実と右の虚構の間で方向感覚を失っていく。初めて自室に着いた時、ドアは左側に置かれる。蛙に包まれるシーンの開始時は、カメラが部屋の反対側に移り、右側のドアが異世界に繋がる。このくだりは夢だったように描かれるものの、再び目覚めた時のショットで、カメラは反対側、ドアは右側に繋がったまま=現実にいるのに構図は虚構が保たれる(その後に木刀が崩れる)。眞人の現実に、じわじわと虚構が侵食している。

彼は母の幻影に囚われており、そのトラウマは傷に集約される。彼が青鷺に関心を抱く度、左右の混乱が増していく。向き合うべき現実=継母のナツコ=左側から目を背け、母を追い、虚構世界に入る(左にいたと思った母には実体が無く、溶けてしまう)。このまま右側へのアクションに呑み込まれれば、彼は現実を見失い、発狂していただろう。

しかし、後半は展開が反転する。眞人のトラウマを虚構=ジブリのキャラクターの模造品たちが癒していく。キリコとヒミ、ジブリ的母性を背負うヒロインに支えられながら、継母の眠る部屋に辿り着く眞人。幻想の母を求めた先、左方向にいる継母に対して「ナツコさん、お母さん、ナツコお母さん」と言う。虚構の流入が狂気ではなく、「他人のナツコを母として認める」という、ポジティブな現実改変として機能している。

(ナツコも眞人と同様、現実逃避のために虚構世界に来ている。死者であるヒミが、まだ生きる事ができるナツコに、現実に帰るよう訴える場面が切ない)

どれほど虚構に逃げ込んでも、過去に起きた現実は覆せない。眞人はヒミ=亡くなった母が幻であり、虚構である事を受け入れていく。一方ヒミは眞人の姿を見て、彼を産む現実に帰りたいと思う。ヒミと眞人は抱き合い、手を繋ぐ。①とも関連するが、それが生者と死者を区別なく描けてしまう、アニメーションの特性だからだ。虚構と現実が相互補完しながら、未来へ向かう。2人はそれぞれの世界へ、左方向の扉を開けて帰っていく。帰還した眞人は、ナツコと手を繋ぐ。

アニメーションは現実ではない。アニメーションの描く現実は、まやかしに過ぎない。絵で命を描くことにどれほどの意味があるのか?

例えば高畑勲はかぐや姫の物語で、超絶クオリティのアニメーションを拵え、欺瞞に満ちた人の生をアニメの力で肯定した。庵野秀明はシン・エヴァンゲリオンで、虚構やコピーの積み重ねこそが自分自身なのだと表現した。

宮崎駿はその中間を行く。庵野秀明のようにセルフオマージュを重ね、自分の作ってきたキャラクターを活躍させることで、虚構を量産した自分の人生に「意味があったことにする」。この現実改変によって、宮崎駿は実母との再会と別れを完遂している(フェイブルマンズに似ている)。と同時に、不確定な未来を背負う眞人というキャラクターを、子供たちの未来を救っている。

宮崎駿はアニメで自分自身を救った、だから次の世代もフィクションの力を借りながら、現実を切り拓けるはずだ。原作の「君たちはどう生きるか」が描いた「フィクションが真実と向き合い、社会を変える入り口になる」ことを、身をもって伝える。これが今作の核にあるのではないか。

ということで、高畑勲の弟子であり、庵野秀明の師匠である宮崎駿らしい、最後の映画なのだと思う。ただ個人的な好みとしては、宮崎駿の映画に、メタ視点は入れてほしくなかったです。独立した物語内で、アニメーションの凄さをぶちかまして欲しかったという、心残りがある。そうした印象は初見時と変わらず、私はかぐや姫の物語の方が好きだなぁと思いました。

【以下、公開初日の初見時の投稿】
よく分からなかったのでもう一回見て明日加筆します。

7年かけて、本田雄がシンエヴァを蹴ってまで参加して…という経緯から、とんでもない集大成が来るのか?という予想に反し、誰かのために作られたわけではない映画だった。引退後も溢れるイメージを最高の作画でまとめた映像集に近い。見たまま受け取って欲しいという宣伝戦略は腑に落ちたけれど、今のところかぐや姫の物語は超えていないです、個人的には。

魔法少女と対比される現実の継母は、キムタク親父が嫌になって時間の止まった世界に行く。少女、母、老婆、化け物をひと繋ぎに、女性をあくまで他者として描き、母性への執着をここまで曝け出されると、もはやロリコン、マザコンを「指摘」する気もなくなるというか、本当に一貫した作家なんだな、と思う(母から渡される赤いジャム、あれは血でしょう。グロかった)。母を救うことで、自分が産まれる世界を守るパラドックス。醜さと美しさが共存する世界の、自分の矛盾を引き受けて、王蟲=キャノピーを量産する現実の父親の元へ帰る。

・人力車から重力描写やりまくってて笑う。ぐねーっと歪む運動を軸に、哺乳類と爬虫類、空と陸と水を仲介する鳥を描く。アニメらしいモチーフ。青鷺は火の鳥の猿田で、天孫降臨の猿田彦で…と、やりたい事をずっとやっている。

地獄の門をくぐったクリエイターが手にするのは積み木か、墓石か。アニメが生きているのか死んでいるのか、境界を見極めるのは難しい。空から降ってきた魔法(御一新、近代日本)を、犠牲を払いながら土地に定着させた=ディズニーと東映動画?風立ちぬでは絵画として登場した「死の島」の世界に本当に入ってしまう。夢の中で夢を見るように、好き放題つぎはぎしている。

・ベタなエンタメはやらない(ハウル以降ずっとそう)。階段を落とされる場面、ラピュタの頃なら、駆け上がろうと粘る動作や落下のショットを入れたはずだが、恐ろしく淡白に切っていく。ラストもアンチカタルシス。観客に期待していない感。「天国みたい」と泣くインコ、宮崎駿にはジブリファンがあんな感じで見えているのかな。

・セルフオマージュをどう捉えて良いのかよく分からなかった。基本的に青鷺以外、キャラデザインにやる気が感じられない。シンエヴァのように、自身の劣化コピーに溢れた日本アニメへの皮肉なのか、単に宮崎駿の中から同じモチーフが出てきているのか、判断がつかなかった。
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