ひろくん

君たちはどう生きるかのひろくんのレビュー・感想・評価

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)
4.2
宮崎駿による、創作、ということへのアンビバレントな感情の止揚と総括、反省、そしてそれらを踏まえた決定的な肯定。そしてその反省の過程において強烈な母性への信頼があり、その逆に父性への不信、諦観もある。総合的には、創作が持つ力を糧としつつも現実を生きよと訴えかける、そのような実直なメッセージが(議論を呼ぶいくつかの要素を含みつつ)込められた映画だと思った。

これまでの宮崎アニメを彷彿とさせる表現が随所に登場する本作だが、中でも塔の中のパラレルワールドにおいては、ナウシカ、もののけ姫、ハウル、崖の上のポニョなど枚挙に暇がないくらいの宮崎駿自身の過去作品のモチーフがいささか冗長とも思える尺を使って現れ続ける。この世界を創造した(している)とされる“大叔父”の語る葛藤は、そのまま宮崎駿の葛藤と読み替えて問題ないだろう。“大叔父”は、もう自分には先がなく、この世界の創造という事業を、自分の血を継ぐ眞人に託そうとするが、眞人は「現実を生きる」ためにこの頼みを拒否する、というところまでは「フィクションに耽溺せず現実を生きろ」というありがちな展開だが、重要なのはこのパラレルワールドがまさにそのような現実を生きる眞人、夏子、ヒミの「生き方」に影響を与え、世界が終わっても三人の中に(そして無数の鳥たちの中にも)それが存在した、そこで体験したことが形を変え残り続ける、ということだ。創作にまつわるこのプロセスと結果の肯定。現実を生きる、その糧となる創作。これが宮崎駿の、恐らくは最後の長編作品でたどり着いた答えだとしたら、祝福の言葉以外に感想などというものはない。創作そのものに耽溺してはならない。それ自体は目的ではない。しかし創作により変容した人間のあり方やそれができる創作の力を肯定する。最後にこの境地に宮崎駿が至って、本当に良かったと思う。彼にとっての人生の(たぶん)半分くらいを自分でここで肯定している。そしてなによりも、幼い頃から彼の作品に心を動かされてきた多くの人たちにとって、この結論は深く納得できるものだろう。本当に、ありがとうございました。

他方で、この作品には、母親、という存在への肥大化した憧憬と、父親、というものへのある種の断念、諦観が色濃くある。

夏子のもとへ誰もたどり着いてはならない、彼女と会うことが禁忌とされたのは、ひとえにそうすることがこの物語の終焉へのトリガーとなるからである。彼女が、愛した男の子を身ごもったという地点から、一人の子の母、また継子の母という何者かへ変容するのがこの作品の一つの主要な物語で、それが果たされることすなわち眞人の冒険が終わることは、ヒミを含む三人がこのパラレルワールドに存在する理由を失うことと同義である。ゆえに世界はその存続のために“夏子を幽閉する”(そもそも夏子自身の願いによって夏子は幽閉されている。また、この世界はそうなるように大叔父によって構築された)。この冒険の、また夏子の変容において非常に重要な役割を果たすのが、言わずもがな、ヒミである。彼女の活躍なくして眞人と夏子は心を通わせることはなかった。眞人は本心を夏子へ伝えられず、またその逆も然りだ。夏子は眞人へ「おまえが嫌いだ」と言うことで、その言葉により失う多くのものについてようやく気付いた(ヒミは夏子に対し良き母となることを願うと言葉をかけて二人のもとから去ることも重要だ)。こうしてみると、パラレルワールドにおける夏子の変容、また現実世界における眞人の変容、いずれもヒミ=母によって達成されたものだと言える。だが待って欲しい。ヒミ=母の実年齢はパラレルワールドに迷い込んだ時点と同じで、それはせいぜいが眞人と同じか少し上ではないのか。そのような年齢の女性が、未来の息子とその継母となる二人のために身を挺して活躍し、最後には良き母親となるよう夏子へのエールまで送って去っていく、あまりにもこれは出来過ぎ、もしくは、母なるものが無前提、無根拠に女性性に含まれると言っているようではないか。ヒミ=母、の位置づけについては、あまりにも過大なものを負わせすぎている。

そして父親について。眞人の父親は徹頭徹尾「何もわかっていない男」として描かれる。眞人がパラレルワールドから一瞬だけ現実への扉を開けたとき、父の手を取ってともに冒険する、ということを逡巡することもなく彼を閉ざしたのも、眞人が父のことをどう理解しているかを表す一端である。他方で、大叔父がいる。世界を創造することに没頭し、現実との関わりをなくし、現実から来た少年に夢をみさせることで自分の後継へと仕立て上げようとするこの男。眞人と父の関係は『千と千尋の神隠し』における千尋と父を、眞人と大叔父の関係は『天空の城ラピュタ』におけるパズーと父の関係をどこか思い起こさせる。前者の関係は引用元の作品でも「そもそもが破綻したもの」として整理されているが(ここが一つ目の父というものへの諦観)、後者の関係は今回結果が見直され、父の見せる夢など子供にとっては現実を置き換える何かになどなりはしない、という断念を表した、と感じる。父が子に対しなし得ることなどついに何も無かった。と、ここで宮崎は述べようとしているのではないか。

改めて整理すると、その背後では母なるものが女性性に含まれ全てをあらかじめ理解し抱擁するのだという無前提、無根拠な母性への期待、また父なるものの無力、無価値さ、諦観が色濃く現れた、いかにも、いかにも宮崎駿らしい総括の形。しかし、それによりこの作品の価値が揺らぐことは、おそらくないだろう。宮崎駿にこんなに自由に語ってもらえたこと、彼が自分自身の創作を肯定したことは、その結果として表出された一部の価値観の是非をさておき、私には、とても嬉しいし、これが彼のおそらくは最後の長編であって、本当に本当に良かったと思う。

余談1

つわりで臥せる夏子の手が眞人の頬に添えられる。眞人は何の感情もないような顔をしているが、その直後に彼女の部屋にあったタバコをくすねる。このときの夏子の手の大きさが、眞人の年齢を考慮しても、異様に大きく描かれている。どこかこれは、眞人のことを思う夏子と、またこれから眞人自身と、自分の弟ないし妹、二重の意味での母親になろうとしている夏子への受け入れがたさ、この二つが同じ方向を向いていつつも一方には恐怖のようにうつっている、ということを一瞬で悟らせる、強烈な描写だ。こういう表現ができるアニメ作家にこそ国民的支持が集まってほしい。

余談2

あの塔の中の出来事が創作という営みであるというのは、どこからともなく(宇宙から?)隕石の如くやってきた石がインスピレーションで、大叔父が建設させたそれを覆う塔は作品である、と読み替えられるところにも根拠を持つのだが、この作品を作る過程、塔を作る過程で何人もの犠牲が出たがそれでも大叔父は塔を作ることをやめないということの罪深さと、それをここで語る宮崎駿の心情を想う。それでも創作をやめなかったのだ。彼は。どれほど罪深くとも、わかっていても、やめない。
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