天豆てんまめ

君たちはどう生きるかの天豆てんまめのレビュー・感想・評価

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)
4.5
㊗アカデミー賞受賞!
今、宮崎駿は世の喧騒から離れて、ひとり何を想うのか。
そして、私たちはこの作品から一体何を受け取ったのか。
その問いは今も尚、私の心を揺らし続けている。

2024年3月11日、第96回米国アカデミー賞で「君たちはどう生きるか」(宮崎駿監督)が、長編アニメーション映画賞を受賞した。日本映画の同賞受賞は、2003年「千と千尋の神隠し」以来2度目だ。

私はアカデミー賞を受賞した翌日にIMAXで初めて鑑賞した。

「君たちはどう生きるか」は、宮崎駿監督が少年時代、母から手渡された小説「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著)からタイトルを借り、自身の少年時代を重ねた自伝的ファンタジーと言われている。

物語の舞台は、宮崎駿監督の記憶の中に残るかつての日本。

母を火事で失った11歳の少年・眞人は父と共に東京を離れ、和洋折衷の庭園家屋に引っ越してくる。

豪放な父と新たに母親となった亡き母の妹・夏子に複雑な感情を抱く眞人は、心を開かないまま自傷して家で療養していると、青サギと人間の姿を行き来するサギ男に出会う。

「死んだ母は生きている」と言い放つサギ男に誘われるかのように、屋敷の離れにある塔に迷い込み、生と死が混然となったもう一つの世界に入り込む。

そこには、頭に眞人と同じ傷を持つ女性・キリコや、生と死の象徴・ワラワラ、傷つきながら大空へ舞い上がるペリカンたち、大衆のようなインコたちを率いるインコ大王、火をつかさどる少女・ヒミ、そして、昔に姿を消した青柳屋敷の主の大伯父との不思議な邂逅と縁が紡がれていく。

眞人はなぜ、生と死の世界に導かれたのか。死んだ母は生きているのか。謎の少女ヒミと、世界の均衡を保つ大伯父の正体は……?

ただ、宮崎駿監督の魂が全編スクリーンに溢れる

圧倒的なビジュアルイメージを全身に浴びた感覚だった。

この映画は確かに普遍的な冒険物語でもあり、少年の成長物語でもある。

でも、そうした物語の骨格を超越した何か得体のしれない根源的な力があった。

ストーリーがどうだとか、設定が、キャラクターがどうだとか

そんなことを語るのがナンセンスに思えるほど

まさに、今、私は宮崎駿の世界の中にいる。

その至福感を最初から最後までずっと

強く感じ続けた時間だった。

太平洋戦争の真っ只中、十二歳の眞人は、自分はこれからどう生きるのか、揺れながら必死で生きようとしていた。

最愛の母を亡くし、今、自分はなぜ生きているのか、どのように生きるのか、その切実な問いにもがいていた。

でも彼は、新たな扉に手を伸ばし、その先へ、その奥へ、未知なる世界へ踏み入っていく。

彼の姿はまるで、飽くなき挑戦を続ける宮崎駿の意志が宿っているようだ。

老いなど全く感じさせず、圧倒的に若々しい力に満ちている。

宮崎駿にとって、少年の心は、きっと過去じゃない。

まさに、今、ここに生きているのだ。

この映画のテーマは?と聞かれ、言語化するのが難しいが、

「自分を信じろ」

「強く生きていけ」

「勇気をもって前へ出よ」

というような一見ありふれた言葉が

身体中の細胞や血液から充満していくような

劇場を出て、生命力が漲るような感覚。

この映画の「意志」が、私の中の「意志」に宿る。

どんな危機があっても、困難が待ち構えていても、

ともかく前へ、前へ出る挑戦心が湧き上がってくる。



一方で、めくるめく万華鏡のようなアニメーションの洪水に

すっぽりと飲み込まれるような快感があった。

冒頭すぐの空襲の火のシーンの迫力に目を奪われたが、こんなに恐ろしくも美しい火の描写を観たのは初めてだった。

向こうの世界でワラワラが空中にふわふわと舞い上がり、それをペリカンたちがついばんでいく幻想的なシーンも印象的だ。

昼の半島の風景も、夜の上限の月も美しい。

また、この映画はとにかく場面転換が大胆で、全編に渡って疾走感があり、後半それがうねるように更にドライブしていく。

青サギが塔の中に逆さで猛スピードで入る場面や、大量のインコがバーッと扉から溢れて出てきたり、次から次へと新たな扉の先の世界を魅せてくれる。2時間強の上映時間も全く長く感じさせない。

まさにアニメーションでしか実現できない世界を魅せてくれる。
一回ではすべてを受け止めきれない程の膨大なディテールの数々。観終わった後に、もう一度見たいとすぐに思った。

エンディングの米津玄師の「地球儀」も素晴らしかった。

作品世界と歌詞とメロディと彼の声がもう一度この映画を再体験させてくれるような名曲だった。

この曲のデモを聴いて宮崎駿が涙を流したという。

そして、彼は米津玄師にこう言ったそうだ。

「子供たちに、この世は生きるに値するということを、映画を通して伝え続けていきたいんだ」

是非この映画を観た後に、「地球儀」の歌詞もじっくり読んで一度聴いてほしい。



それにしてもなぜ、こんなに生命力に溢れた映画を作れるのだろうか。

宮崎 駿は1941年〈昭和16年〉1月5日生まれの83歳。

私の父、母の1つ下の学年とは思えないほどに

その全く衰えることの知らない

豊穣なイマジネーションと、頑強な信念と、尋常ならざる狂気。

そして、それを圧倒的な努力の継続によって生まれた一つの作品が

こうして世界中に認められるという作品の強さ、普遍性が嬉しい。

それは一映画というより、一人間としての深さ・広さ・強さ

そう、人間そのものが真ん中に強く存在しなければ

決してたどり着けない境地が、見事に具象化されている。

それを多くの優秀なアニメーターが

気が遠くなるほど長い時間をかけて結晶化していく。

その作品を映画館で存分に堪能できる幸せ。

これほど代えがたいものはない。

「君たちはどう生きるか」とこの映画と宮崎駿に問われ、

私は何を思ったか。

それは

ただただ、四の五の言わずに、言い訳をせずに、

ちゃんと想いを心に抱えて生きていきます。

この一度きりの人生を、自分に嘘つかず、生きていきます。


宮崎駿監督はあの晴れがましいアカデミー賞の受賞の瞬間には

ステージにはいなかった。

もっと深く、自身の心の中に深く深く鎮座したまま

ただ喜びを静かに熱く味わっていたのではなかろうか。

見栄や名声や自己顕示欲や自己承認欲求がはびこるこの世界に

秒単位で放射され続けるクルクル変わる膨大な情報に包まれながら

私たちは踊らされ、惑い、浮き立ち、我を忘れて日々が流される中、

宮崎駿という人は、この映画はコロナ禍やウクライナ戦争が始まる前から

まるでその先を予見していたかのごとく、深い井戸の底に降りたまま

時代と世界の変遷に押しつぶされない普遍的な強い作品を創り上げた。

今から7年半も前の2016年7月1日のこと

宮崎駿監督はこの映画の題材と向き合って企画覚書を残していた。

そこにはこんなことが書かれてある。

「長編は、最低でも3年かかる(※実際には7年の歳月を要した)問題はこれからの3年に世界がどうなっているのかである。我々の映画は、どんな状況下のどんな気分の人々に出会うのだろう。今の、ボンヤリと漂っているような形のはっきりしない時代は終わっているのではないのか。もっと世界全体が揺らいでいるのか。戦争か大災害か、あるいは両方という可能性もある。こんな時代に、3年がかりの映画を創るとしたらどんな形の映画が望ましいか……。(中略)戦時下を舞台にした映画。時代を先取りして、作りながら時代に追いつかれるのを覚悟してつくる映画。時代に迎合した映画は創ってはならない」

この信念に強く裏打ちされた映画が

7年後にこの世に誕生し、

私たちの前に現れてくれた。

その幸福をめいっぱい、隅から隅まで味わおうではないか。

四の五の言わずに、言い訳もせずに、

ただただ、この時代を、自分が思ったように

歯を食いしばって、強く生きていこう。

諦めるな。決して。

私はそう心に誓った。



是非、映画館でこの映画を全身で浴びてほしい。

心からそう思います。