ナガエ

インフィニティ・プールのナガエのレビュー・感想・評価

インフィニティ・プール(2023年製作の映画)
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久々になかなかぶっ飛んだ、狂気的な作品だった。映画を観ながら本当に、「映画『ポゼッサー』みたいな演出するなぁ」と思ったのだが、本当に映画『ポゼッサー』のブランドン・クローネンバーグが本作の監督だった。そりゃあ、イカれてるわけだ。

以前何かで、こんな話を耳にしたことがある。「車を運転していると性格が変わる」という話に関するものだ。

「車を運転していると性格が変わる」と聞くと、「普段は穏やかな人なのに、車に乗ると凶暴になる」みたいな理解になるだろう。しかしその理解は、実は正しくないようだ。

どういうことか。そもそも私たちの「脳」は普段、無意識の内に様々な活動を行うことで「社会人としての穏やかさ」を獲得しているという。しかし車の運転中は、飛び出してくる歩行者がいないか注意したり、危険を感じさせる音がしないか気を張ったりと、「脳」が忙しく動いている。そのため、「普段は無意識に行えている『社会人としての穏やかさ』を獲得するための活動」が行えなくなってしまうというのだ。そしてそれ故に、「凶暴性」が表に出る、というわけだ。

つまり、「車を運転するから凶暴になる」のではなく、「本来的には凶暴なのだが、普段は脳の無意識の活動によって抑えられているだけ。運転中はそれが解放されるから、本来の凶暴性が現れる」というのが正しい理解なのだそうだ。

本作を観ながら、そんなことを思い出した。つまり、「人間というのは本来的には邪悪なものであり、普段はそれが抑え込まれているが、何らかの理由で抑え込めなくなった場合には、その邪悪さが一気に現れる」というのが、本作で映し出される「人間の醜悪さ」であるように感じられたというわけだ。

本作の場合、そう感じさせるだけの設定がなかなか良くできている。宣伝の段階でこの設定についてはオープンにされているので、書いてもいいだろう。本作では、「犯罪を起こしても、自身のクローンを作り、そのクローンを死刑にすることで、罪を犯した本人は刑罰を免れられる」という、常軌を逸した世界が描かれるからだ。

本作の物語がどう展開するのかは一旦置いておくとして、もしもそのような環境が身近に存在するとしたら、あなたならどうするだろうか? どんな犯罪行為を行っても、自身に刑罰は課されないのだから、人によっては「犯罪し放題」みたいな感覚になってもおかしくはないだろう。

そしてまさにその設定は、「人間の醜悪な本性」を浮き彫りにするものと言えると思う。そしてそのような「醜悪さ」が、全編に渡って滲み出るのが本作というわけだ。

本作を観ると、「人間はあっさりと狂気に慣れてしまう」ということが改めて実感できる。いや、もちろん本作はフィクションなのだが、狂気じみた設定とは裏腹に、僕は本作に割とリアリティを感じた。人間の醜悪さが煮詰まると、こういう風に物事は展開していくよなぁと思わされたのだ。

そしてそう感じることで改めて、「『法律』が持つ抑止力」についても考えさせられた。

しかし本作の捉え方は、欧米人と日本人(アジア人)とでは少し違うかもしれない。

以前読んだ『理不尽な国ニッポン』という本に、「日本社会では『何が悪なのか』を決めるのは唯一『世間』である」みたいに書かれていて、とても納得したことがある。その本の著者はフランス人であり、日本人と結婚し日本に長く住んでいる。そしてフランスと日本を比較することで物事の違いを炙り出す社会論みたいな作品なのだ。

フランスでは基本的に、「『ダメと決められていること』以外はやってもいい」というのが当たり前の考え方だそうだ。これは要するに、「法律に違反しなければ何をしてもいい」ということである。フランスだけではなく、欧米では一般的にそのような考えが当たり前だという。

しかし日本の場合はそうではない。例えば「不倫」は、法律では禁じられていないはずだが、「世間」がそれを許さない。このように日本では、「『良いと決められていること』以外の善悪は『世間』が決める」というルールの下で社会が回っているのである。

となると日本人の場合、仮に「法を犯してもクローンを死刑にすれば自分は罪を免れる」という設定があったとしても、「世間」の目を気にしてやはり罪を犯さないかもしれない。そういう意味では、とても欧米的な価値観に則った作品だとも言えるかもしれない。

内容に入ろうと思います。

美しい高級リゾート地である「リ・トルカ島」は、「リゾート地」だけが鉄条網で覆われ、地元住民と接触しないように区切られている。リゾート地に泊まる外国人観光客は、敷地外から出ることを禁じられており、観光客は限られた敷地内で思い思いに過ごす。

この島に妻と共にやってきたスランプ中の小説家ジェームズは、ある日ガビという女性に話しかけられた。6年前に本を1冊出版したきり何も書けずにいるジェームズに「あなたのファンです」と声を掛けてきたガビは、彼女の夫と共に食事に行き、さらに翌日、夫妻に誘われて、禁止されているはずの敷地外のドライブにも出かけることになった。

しかしそこでジェームズは、とんでもないことをしでかしてしまう。ガビにけしかけられるような形で敷地内に戻ったジェームズだったが、その後彼は警察に逮捕されてしまった。そして死刑を告げられたジェームズは、警察官から驚くべき話を聞かされる。

この島では外交政策の一環として、外国人向けの取引を行っている。大金と引き換えに自分のクローンを作成することが出来、そのクローンを死刑に処すことで、本人は無罪放免で解放されるというのだ。もはや何を言っているのか分からないジェームズは、混乱の中、警察官に言われるがまま書類にサインする。そして実際に「クローンの処刑」が行われ、ジェームズはホテルの部屋へと戻ることになった。

ジェームズの妻は、こんな島からは一刻も早く抜け出さなくてはと夫をけしかけるのだが、なんとジェームズはパスポートが無くなったと口にし……。

というような話です。

「クローンを罰せれば本人は無罪放免」という設定だけは知っていたのだが、映画が始まってしばらくの間、とにかく物語がどんな風に展開するのかさっぱり分からなかった。そして、一気に物語が進み始めたかと思えば、怒涛の勢いで狂気的な展開になり、そのまま一気にハチャメチャな狂気に突入していくという感じだった。

「警察からクローンの処刑を提案される」という設定は、個人的には割とリアリティがあるように感じた。シンガポールやドバイなど「海外から多くの人を集めよう」と考えている国が様々な手段を講じているわけで、その選択肢の1つとして「金持ちの外国人には、クローンの処刑を提示する」という世界は存在し得るような気がした。

しかし、そのような設定が提示されて以降の展開は、「ザ・狂気」という感じで、もはや何がなんやらという感じだった。ただ、観客を置いてけぼりにしそうなくらいのイカれた展開にも拘らず、少なくとも僕は「物語を追っていこう」みたいな感じになれた。そしてその最大の要因が、ガビを演じたミア・ゴスにあったように思う。

映画を観る直前、本作にミア・ゴスが出演していることを映画館に貼られていたポスターで知ったのだが、にも拘らず僕は、映画を観終えるまでミア・ゴスの存在をすっかり忘れていた。観終わった後、「そういえば、あの女性がミア・ゴスだったか!」と驚かされたぐらいだ。ミア・ゴスは、映画『パール』でその存在を初めて認識した女優だが、『パール』でも本作でもとにかく狂気一色という役どころで、そういう雰囲気を絶妙に醸し出すなと思った。

そしてそんなミア・ゴスが、この狂気的な物語の”手綱”を握っているように感じられた。実際に、ミア・ゴス演じるガビがストーリーを先導する存在ではあるのだが、それはそれとして、女優ミア・ゴスの存在感もまた、本作を成り立たせる重要な要素と言えるのではないかと思う。あまりにも現実離れしすぎていて「遠さ」を感じさせてもおかしくない物語を、ミア・ゴスという存在感がどうにか上手く繋ぎ止めているような印象があって、その点もまた本作の見事な点だったように思う。

ちなみに、タイトルになっている「インフィニティ・プール」だが、作中では一瞬だけその言葉が出てくるだけだ。ガビの夫が、そのリゾートのインフィニティ・プールを設計した、というのだ。それ以上インフィニティ・プールの話が出てこなかったので、何故これがタイトルになっているのか分からなかったのだが、インフィニティ・プールの意味を調べてようやく理解できたように思う。

そもそもインフィニティ・プールが何なのか僕は知らなかったのだが、これは要するに「外縁が存在しないような作りによって、海面とプールの水面が無限に(インフィニティ)続いているかのように見えるプール」のことのようだ。なんとなくイメージできるだろうか。

そしてこれは要するに、「境界が存在しない」ということを示唆するものであり、当然これは、「人間の狂気はどこまでも広がっていく」みたいな意味合いを持たせているのだと思う。なるほどという感じだった。

ぶっ飛んだ狂気を体感したいという方は、是非観てほしい。
ナガエ

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