ニューランド

唯一、ゲオルギアのニューランドのレビュー・感想・評価

唯一、ゲオルギア(1994年製作の映画)
3.9
 イオセリアーニの特集といっても、1.2本見ればいいかな、位の関心しかなかった。ましてや、記録映画、上映時間を一部の1時間半と見誤ったせいもあり、眼中になかった。しかし、ツィッターを定期的に読んでる、偶々知人と名前の似ている映画関係者の文章から、4時間に及ぶ大長編と知り、興味を抱く。
 実際に観て、ArteによるTV用作品、観光·歴史·時事憤り作と知り、画質も良くなく、殆ど全篇、他作者·撮影者による劇映画やニューズリールの引用·組合せで、作者が実際にカメラを回したのは、冒頭辺りにいくらかあるのだろうか、位のもので、イオセリアーニ特有の、間やカメラワークの独特·絶妙の味わい·柔らかい深みを感じ取る事はあまりなく、ちょっとがっかりする。しかし、綿密に組み立てたのでもないような、自由な流れに任せた組上げが、あからさまでない、世界と時の摑まえ方のスケール·フリーさ·相互関連·時代の緊張感に繋がってゆき、一般のドキュメンタリーという範疇、或いは周到な劇映画では表現出来ない所まで何時しか届いてて、息を飲む事になってゆく。得も言われぬ傑作だった。
 住居ビル内のベランダが隣家と繋がってる位、開放的で親しみやすく、また、狡く上手く立ち回れない正直な国民性。田舎の一戸建ての作り方、また、盛んな(この国だけではないにしても)混成合唱団の在り方にしても、右に倣えの統一支配的·無個性な存在をはみ出し、騎士·兵士としても勇猛な歴史をつくってきた。位置的に周囲をイスラム教国に囲まれて、支配されてた時もあるが、教会は民族固有の正教徒としての誇りを保ち続け、それは大国ロシアの支配下でロシア正教への統合の脅しにも揺るがない。しかし、より古来からのこの地の土着宗教を排除しないばかりか、吸収しての併存の部分もあり、ユダヤ教徒·カソリック·アルメニア人に対しても受け入れ認める事にも繋がる。他文化を迫害する事はない。それでコサックら強いのが力関係で弾かれ流れ来たのも入れてくる。
 それは、文化の劣りを武力で隠し襲い支配してきた、特に大国ロシアを中心とした併合吸収にも、独自のアルファベット文字をもち、識字率も高い文化と独立の精神で、大国の一色染め教育にもなびき屈しきる事はない。その分、武力衝突·軋轢·支配強行·内部分裂を複雑に生んできた背景ともなってる。ロシア革命後の独立·共和制は、対ボリシェヴィキで、政治家·軍人は逃げて、3年で再び属国化するが、残って知識人らは動じるを見せもしない。
 確かに国としての形を失い、一地方にしか見えない外形だったが、特に文化·演劇らは直接性から免れ、また、溢れるを規定出来ないものがある。特に映画は抜けて、世界に越えて、勝手に通じ、それを止められないポジションを持ち続けた。その支配側も扱いに手をこまねく、自在で複雑を秘め、読み取れず、先のレスポンスを把握できない、発表持続の流れ、の事実。 
 ソ連自体も、併合したこの国に対して(も)、工業化·収穫·労働者勃興の模範的プロパガンダ(映画)を続けたが、現実とは遊離し、成果的に実際は成功していないし·形成もされていない工業化·労働者層の実態。只小振りにソ連内の一部として産業·生活は割当てを守るだけの縮小固定の活気に反する実態で、農業も茶や柑橘類だけに制限され、主力の小麦とは無縁であり、ロシア主体の理不尽な支配を感じさせるだけの産業統制であった。この国出身の巨大な政治家としてはスターリンがいるが、体躯の小ささのカバー·隙間や弱さを見せない、権力への巧妙な到達·ほぼ完全な独裁専制に届き、その維持してきた名残りは、フルシチョフ体制になっても完全には潰せず(ジョージアでは国の方向に逆らっての、死後3年後の追悼集会すら)、逆にフルシチョフの失脚の要因へも。そして、その後もブレジネフ以降は、経済の袋小路·指導者夭折続きとなり、グラスノスチ·ペレストロイカの流れを余儀なくされるが、ゴルバチョフは経済の方にしか向いておらず、奥底の出自や本音は違ってても、真に独立·自由を衛星国や人民に与えなければ、問題解決には向かないを、彼に向け·しつこいまでに訴えたは、外相にしてジョージア出身のシェワルナゼ、というこの地の出ではスターリン以来の大物政治家だった。
 彼は故国に戻ってより、国のトップに、独立してもロシア傀儡の流れから脱却出来ない配置をするに対す、対立候補との抗争の後釜として、持ってこられるは新旧の混乱がその侭反映していたが、バックアップどころか、変わらぬ大国ロシアのエゴイズムで、民族の纏まりからリゾート地らでの陽動·もぎ取りや、ジョージアの中心へのそれを口実にしての侵攻、そればかりか似た状況で係りもあるチェチェンへのより悲惨な蹂躙、というやりきれない、ロシアのソ連は崩壊しても、中身同一の支配·物欲に対峙してく事になる。彼も、もはやこれに対する真の反抗は、政治家や文化人でなく、民衆から起こってるを実感する。
 一部は、観光主体の現況や自然、過去を扱った歴史映画や、写真·資料で、この国ジョージアの微笑ましく頼もしいエピソードを繋いでゆき、宗教の儀式·遺跡様式からもこの国の独自性·独立性をユニークに語ってゆく。
 二部は、有名な幾つかは記憶にある過去の映画の断片が、風土や文化·気質、非支配環境を証言してゆき、吹き出してく外形より、内に籠もり、皮肉や歴史の欺瞞を描いてく。今も変わらぬロシア支配志向の歪み·それへの本質的憤りを描く。
 三部は、音楽に託けた全てをひっくるめた、支配や非支配の一方通行にならぬ、隙ないほどに面白さで変にワクワクする、出口ない·作劇?の内から張り詰めたダイナミズムと、戦争侵略の現実のあまりに酷い惨状も隔てを外し目にするに至る。シェワルナゼの一筋縄ではいかぬ何回も行う証言や感慨が、多様な意味で、こっちの全体把握を、切り裂いてくる。
ニューランド

ニューランド