耶馬英彦

コット、はじまりの夏の耶馬英彦のレビュー・感想・評価

コット、はじまりの夏(2022年製作の映画)
4.0
 先日鑑賞した映画「カムイのうた」では、明治以降、和人によって虐げられてきたアイヌの歴史が紹介されていた。特に学校ではアイヌ語が厳しく禁じられていて、話すと殴られるなどの罰が与えられる。人は、自分が理解できない言語に疑心暗鬼になることがある。それが権力者の場合、弾圧することがよくある。
 アイルランドにも、植民地支配してきたイギリス人によって、アイルランド語が禁じられて、イギリス英語を強要されてきた歴史がある。言語の支配はあらゆるカテゴリーに及ぶから、イギリス英語を話さないと、経済的に損をするようになる。必然的にアイルランド語が貶められて、英語が主流となった。しかしアイルランド語を保護しようとする運動が起きて、学校ではアイルランド語が必須科目となっている。アイルランド語の話者数も増えているようだ。
 アイヌ語はというと、保護の動きもなく、今では話せる人がほとんどいない状況である。アイヌ語を研究し、ユーカラを高く評価していた金田一京助がこのことを知ったら、アイルランド語との差に悔しい思いをしただろう。
 日本人のメンタリティは、一部の強欲な人たちと、大多数の流されるままの人々に分かれる。流される人々は決して唯々諾々と従っているのではない。反発心を覚えながらも、諦めているのだ。日本をいいようにハンドリングするアメリカに対して、確執を抱いている人もかなりいると思うが、反対運動まで起きることはない。沖縄に軍事基地があり続けるのは、日本人の諦めだと思う。

 アイルランドの人々にも、同じような確執が、イギリスに対してあると思う。本作品でイギリス英語よりも主にアイルランド英語が使われているのは、そういう確執の現れのような気がする。言語は文化だから、アイルランド人が自分たちのレーゾンデートルをアイルランド語に求めるのは当然だ。

 それでは、アイルランドの少女コットのレーゾンデートルはどこにあるのか。学業成績も運動もそれほどでもないし、これといった特技がある訳でもない。しかしひとつだけ、コットには沈黙できるという特質がある。
 子供というのは、自己主張が激しく、とにかく喋りまくるし、動き回る。自分を正当化したい欲求もあるから、言い訳も多い。しかしコットは驚くほど静かで、無駄な動きもない。それに嘘を吐かない。何よりも、言い訳を一切しない。芯が強いのだ。
 親戚の夫婦の家で過ごす間に、コットは自分でも気がつかなかったことに、気がつくことになる。それは他人との真摯なふれあいだ。思いやりと言ってもいい。互いに思いやること。そのことがどれだけ人生を豊かにしてくれるか、コットは初めての体験をした。
 心を閉ざしていてはいけない。自分が心を開かないと、相手も開いてくれない。少し成長したコットは気づく。心を閉ざした自分に、優しく心を開いてくれた親戚夫婦は、稀有の存在なのだ。
 再会した母親は、いち早くコットの成長に気づく。「背が伸びた?」と彼女は聞いたが、すでにコットの心が成長したことに気がついている。それを「背が伸びた?」という質問で表現する演出が素晴らしい。

 帰宅したコットの心のなかでは、これまで感じたことのない気持ちが生じている。それは感謝の気持ちだ。何か言わなければいけない。何を言えばいいのか。コットは悩むが、足は自然に動き出し、親戚夫婦の車を追いかける。ありがとう、おじさん、ありがとう、おばさん。声には出さないが、コットの気持ちは十分に伝わってきた。コットを追ってきた父親も、ようやくコットの成長に気がつく。

 演出もカメラワークも非常に繊細で、心に深く染みてくるようないい作品だ。
耶馬英彦

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