排路

夜明けのすべての排路のレビュー・感想・評価

夜明けのすべて(2024年製作の映画)
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映画を見続けたいと思う理由が凝縮されてた。映画と現実があまりにも違いすぎて、願わくばこんな関係がわたしの世界にも広がればと思うけど、彼らのようにちょっと物の見方を変えるだけで、贈る行為が意味することが反転するし、電動自転車より普通の自転車乗ってたいと思うし、道端で靴紐結べるようになりたいし、目標や自分のいる場所を客観的に評価する力がなくてもいいと思えるし、あわよくば自分が多少意識的に抑圧して、自分で見下してる欲望を再我有化してそれを他者向けにあつらえられるだろうと、虚構と現実が絶望的に違う中に、希望を見出せる。
もちろん、映画を現実と地続きなものにしようという考え自体が虚構的でその違和感をどうしたらいいかわからず、とりあえず表現的な美しさを享受したいっていうベクトルもあるけど。そして2つが別々に存在してるのではなく、歩道橋の上で北極星の位置を確認し合う2人のショットみたいに、いろんな美しさが混ざり合う瞬間がいい

だから栗田科学やプラネタリウムはわたしにとっての映画館や自分の部屋だと思うし、それはわたしという観客にテクスト内の位置を割り当てて感情移入を云々することなく、そこから出たあとにもかんじられる残滓的なものを渡してくれる。
(アントニオーニの映画世界にもそういう可能性があるはずだけど、例えば、ラジカセの音から発展して、新しい回想の演出をしてたり、表現上の美点が意識されがちだし、過去のテクストから現代的な意味を掬い取るとも難しい。)
今回でいえば、ストレートに他者を助けたいと表明すること。そうすることで相手を無力化してしまうのでは?と想像しちゃうけど、そんな単純じゃないし、やってみないとわからない。

2回目みた
物語世界は上映時間の終了より前にその終わりを感じさせる(2人が肉まんみたいなの食べながらいつもの帰り道の、トンネルに入る寸前に山添が忘れ物したといって来た道を戻ることで、藤沢がこちらに向かってくるけど、山添は奥に消えてゆくみたいに、ああ、2人はこれから別の世界で生きてくんだなと感じた)これまで作り手やナレーションに包み込まれた物語世界で語るべきことがなくなり、観客が客席に取り残されるような気分になる。何も映ってないスクリーンに対峙したらたぶんわたしはここに座って何をみてるんだろうと思う。これみたいに、やっぱりこの映画は観客を作品の内容の外に向かわせるようなことがありそう(まさに夜明けと上映の終わりが重なる)。もちろんそれ以前にも物語世界外の空間を意識されるような要素はいろいろある。何気ないけど、パニック障害に関するブログの引用はすっごい新鮮で、虚構を見ているというより、学んでいるような感覚になる。あとなによりも同時進行でドキュメンタリーを制作してる中学生たちの存在は大きいと思う。細かいことはわかんないけど、いわゆるオフ・スクリーンが実質的にないものにされるような
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