耶馬英彦

ぼくたちの哲学教室の耶馬英彦のレビュー・感想・評価

ぼくたちの哲学教室(2021年製作の映画)
3.5
 哲学教室というよりも、道徳教室だ。戦争を頂点とする暴力を否定する。もちろん暴力は人権侵害の最たる行為だから、当然否定されねばならないが、哲学教室で暴力否定の結論ありきなのは違和感がある。

 哲学で暴力を考えるのであれば、法学みたいに暴力の成立要件から考える必要がある。たとえばこんな具合だ。人の行為であること。ただし飼い慣らした動物を使うことも人の行為に含まれる。相手の同意、または依頼がないこと。医療行為でないこと等々。
 本作品のようにただ暴力を否定して、二度としないと誓わせるのは、哲学教室ではなく道徳教室である。それに、道徳教育にしては惜しい場面がある。殴り合った二人の子供たちに質問するシーンだが、二人の関係が友だちなのかどうかに焦点を当てて、友だちなら殴り合わないだろうという方向に持っていくのだが、そもそもそれが間違っている。同級生に暴力を振るう原因を追及しなければ、根本的な解決には至らない。
 いじめの問題と同じで、いじめられた側の対応だけを指導しているのでは、いじめた側の子供が抱えている問題は解決せず、いじめは永遠になくならない。どうして他人を殴るのか、その深層心理にまで迫っていくのでなければ、ただ罰を用意することで犯罪を防ごうとする共同体と同じだ。

 それでもこういった取り組みをするのは立派だと思う。担当する教師の精神的負担は相当だと思うし、各教師たちも生徒以上に悩みを抱えていることも分かる。校長の言葉とセンスに頼っている現状は、世界に平和をもたらすには不十分ではあるが、生徒ひとりひとりと向き合って、個別の問題を解決することで全体の問題解決まで敷衍していこうという姿勢は間違っていない。

 人類の歴史は戦いの歴史である。つまり戦争の歴史だ。敗者はすべてを失い、人権も人格も蹂躙される。しかし人権や人格は勝ち負けに関わらず、すべての人間において尊重されなければならないというのが民主主義である。
 虚栄心や自尊心や物欲などに精神を支配されてしまうと、人は暴力的になる。どうすれば暴力的にならず、心を乱されないで平安に生きていけるだろうか。そのやり方については、ゴータマやジーザスが随分昔に人々に言い聞かせている。それでも人々は争いをやめない。
 もともと生物は生存競争をするように出来ている。植物だって日光を奪い合う。人間も争う生物だ。本作品の哲学教室が困難なのは、理性で情緒を押さえつけた上での平和を目指していることにある。勝ち負けはたしかにある。足の速い生徒と遅い生徒がいるのは事実だ。しかし勝ち負けと人格は無関係である。足が遅いからといって人格まで否定されることはない。足が速いからといって人格が優れているわけではない。人権や人格は誰でも平等に尊重される。そのことを理解させるのは並大抵の努力ではないと思う。

 学校のあるベルファストは歴史的な紛争地域である。2021年の映画「ベルファスト」(日本公開は2022年3月)では、宗教的な違いから、互いの「祖国」の主張がぶつかって、武力紛争に至る悲惨な様子を子どもの目線から描いていた。
 この地で人類の平和のための哲学教室を継続しているのは、誠に天晴れというほかはない。日本ではこういう教育はまず不可能だ。むしろアベシンゾーの「美しい国」の道徳教育が、子供の心を歪め続けている。本作品と正反対に「祖国」のための戦争に向けて一直線に邁進しているのだ。
耶馬英彦

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