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哀れなるものたちのbluetokyoのレビュー・感想・評価

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
4.0
いったいなにを見せられているんだ、と戸惑いを覚えつつ見入ってしまう。また、寓意に満ちていて、さまざまに考えさせられる。たとえば、肉体というのは、ひょっとすると、脳がまとう衣服のようなものかも、いやいや、脳自体も、自分という意識が使うPCみたいなツールなのかも。いやいや、まったく逆で、自己というのは、肉体の周囲、たとえば、家の中も、いわば拡張した自己であり、さらに、家の外の街並み、それどころか、船で世界を旅しても、本を読んで知見を得ても、なにごとか経験しても、それらは自己になりうる。まるでタマネギの皮みたいだ。どこまで行っても自己、逆に、どこまで中心に向かっても自己は存在しない。

というところで、ゴドウィン・バクスター外科医のもとに、投身自殺した若い女性の遺体がもたらされる。ゴドウィン医師は、若い女性が妊娠していることを知る。ここで、はっきりとは説明していないが、当時の医学では、胎児を助けることは出来なかったのだろう。だから、母体に胎児の脳を移植したのだと思う。(科学的な興味で脳を移植したのではないと思う)

当初、ゴドウィン・バクスターは、ベラに、家の外に出ることを禁止していた。なぜなら、ベラは、自然に誕生したのではなく、ゴドウィン・バクスターが作り上げた生命体であり、ならば、ゴドウィン・バクスターの作り上げた家という世界でのみ、普通に生存できるのである、と考えたのであろう。つまり、ベラは、ゴドウィン・バクスターの自我の一部であり、かつ、ベラの拡張した自我は、ゴドウィン・バクスターの家だからだ。

だが、(外から、助手としてマックスがやってきたからなのか)ベラは、ゴドウィン・バクスターの家の外にも世界が存在することを知るにおよび、その外の世界に自我を拡張しなくてはならなくなった。そうしなければ、ゴドウィン・バクスターの家は、ただの閉じられた空間に過ぎなくなってしまうからだ。

ということで、セックスの快楽と美味しいという快楽を共有していると思っていたカネ持ち弁護士、ダンカンとリスボンに行く。

だが、ダンカンの求めていたのは、快楽ではなく、快楽を手段とした関係性(この場合は愛人関係)なのである。
ダンカンとベラの方向性は食い違ってくるのだ。そこで、ダンカンは、ベラとともに客船に乗り込み、世界から孤立させる。

客船に乗り合わせたマーサとハリーに出会う。老婦人、マーサにより、肉体の快楽は、肉体が老いれば消滅してしまうことや、知性の楽しみはもう少し長持ちすることを教わった。ハリーは、さらに、そうした、関係性そのものは、カネによって支えられている。カネを失えば、結局、関係性も破断してしまう、ということを教わった。

実際、ベラは、ダンカンのカネをすべて、貧民にくれてやったら、ダンカンは破滅した。

パリである。ベラは、カネはなくとも、売春宿で、自分の肉体を売れば、カネが手に入ることを知る。
ところが、ベラは、カネそのものは、関係性を支えはするが、肉体(労働)を売るという行為は、関係性を破壊してしまうことを知るわけだ。
関係性が、そこにあるとすれば、労働者同士の連帯としての関係性である。

ゴドウィン・バクスターが末期がんという知らせで、ベラは、ゴドウィン・バクスターの家に帰る。およげたいやきくん、みたいだ。ベラは、世界を知って、わが家が一番いいと悟るのだった。

そこへ、ベラの母親の夫(女は子どもを産め、女はオレの領土だ、と言う男)が現れ、ベラを連れて行ってしまうのだ。冒頭のベラの母親の自殺シーンへと回帰していく。ここらへんは、話の組み立てとしては、とてもうまくいっている。
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