黒川

哀れなるものたちの黒川のネタバレレビュー・内容・結末

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

あれだけ楽しみにしていたのにそろそろ終わりそうな頃合いで観た。最高だった。原作本も読まなくてはいけない。

青いドレスを着た女がロンドンブリッジから身を投げる。
身を投げた女がモノクロームの世界に呼び起こされる。ベラと呼ばれる彼女は白痴だ。口から出るのは赤児の様な喃語、口に入れた食べ物を吐き出し、皿を床に落としては破るのを楽しむ。
彼女にはゴッドと呼ぶ父の様な存在がいる。医学学校で教える医者だが、顔には大きな傷がある。腕は確かだが相当な変人で、学生から特に好かれている様子ではない。学生の一人が減らず口を叩いたのを静止したマックスは、ゴッドの家に招かれる。マックスはベラの観察を命じられる。

ヨルゴス・ランティモスのテーマの一つに家父長制がある。本作は「籠の中の乙女」をファンタジックに、より悪魔的に煮詰めた様な作品だ。家族という共同体に嘘で縛り付けられた子供たち。本作のベラの見る世界はモノクロームだった。外へ一人で出ることを許されない彼女はダンカンの口車に乗せられ、婚約者のいる身でありながら(これもまた彼女をゴッドの元に縛りつける意味合いが半分あるのだが)リスボンへ向かう。リスボンへ行き性の快感を覚えた彼女の世界は色彩を帯びる。舞台となるのは19世紀末〜20世紀初頭のロンドン、リスボン、そしてパリだ。女性は貞淑であらねばならない時代、ベラはその「無知」から危ない世界へと飛び出していく。未熟であるからこそに成熟する。外の世界を見たいという欲求は彼女を成熟させる。一人で外に行くことを覚えた彼女に独占欲を掻き立てられたダンカンは、彼女を誘拐するかの様に船でアテネを目指す。女性は男の所有物だ。美しさと「バカであること」が求められていた。
次第に哲学的な問いに気づき始める彼女。それは子供が排便という快を覚えることを肛門期と呼ぶ、フロイトの唱えた成長段階的でもあった。性という快楽を知ったベラが、次第に世間を知り、更なる複雑な感情を覚える。感情は洪水となり、それを制御のできない彼女は突飛な行動に出ていく。
金が尽きマルセイユで下船させられた彼女は女を売ることにした。ダンカンは売女と罵った。ビジネスとしての売春。ここの女衒のババアがすげえカッコいいし、チンコステンドグラス?娼館の窓がイカしている。体を売りつつも彼女は最早快楽はそれほど求めていない。ダンカンしか知らなかった彼女は他の男を見て人間の人間たるところを理解する。男は快楽を求め娼館へ向かい、女は金のために股を開く。監督の他の作品と比べると、性の描き方がかなりドライながら、濡れ場には気合いが入りすぎていてギャップがすごい。ドライな捉え方だからこそなのかもしれない。
ベラの纏うドレスには青色が多い。彼女の成長段階で身に纏う色が少しずつ違ってくる。ベラの正体は将校の妻のヴィクトリアだった。妊娠中だった彼女は川に身を投げ、その身体を見つけたゴッドによりその脳は胎児のものと入れ替えられた。彼女は聖母でありつつも彼女自身の子でもあるという二面性を持つ。父なる神と子なるイエスが同一であるという三位一体を皮肉るかのような設定だ。アダムの肋骨から生まれたのがイヴであるということをも侮辱しているかもしれない。以前の自分を知らぬまま、将校の家に戻るベラ。ヴィクトリアとして扱われる彼女。脳を入れ替えられた彼ら(ここまでその胎児の性別など気にもしていなかったのだが、男女の脳は果たして同じだろうか?メンクリで男女の思考は違うと主治医に言われたが、それはホルモンの作用で思想の違いを生むのだろうか?ということがとても気になった)であるが、彼女はベラなのかそれともヴィクトリアなのか?ヴィクトリアも性に奔放だった様なことを夫は言う。それがベラをダンカンと娼館を選ばせたのだろうか?そうすると人間の肉体は魂の箱であり、その魂は脳に宿るのだろうか?フランケンシュタインの怪物は死刑囚の脳を移植された。彼は子供と花を泉に投げ入れて遊んでいた際、綺麗だろうと思い女の子も水の中に投げ込み殺してしまう。あれは性善説的な話だったのかもしれない。本作はもっと進んで、人はその経験から学び成長することも描いている。

本作にはたくさんの多作品へのオマージュがあった。冒頭のシーンはユニバーサルの「フランケンシュタイン」そのもので、外に出たいと馬車の中で泣き叫ぶベラを気絶させ部屋まで運ぶマックスの姿には怪物が泉に投げ込んだ少女を抱き上げる父親と、「大アマゾンの半魚人」を彷彿する。タルコフスキー「ソラリス」で何度も現れる妻を模した女を毎回宇宙船の外のに追い出すあの姿にも似ている。「メトロポリス」の偽マリアにもベラはにている。しかしながら同時にアレキサンドリアでの場面ではフレーダーの性格も持ち合わせる。モノクロームの「外を知らない」フランケンシュタインの怪物同然だった彼女の世界は「怪物の世界」であった。またギミックがどこが「デリカテッセン」や「ロスト・チルドレン」でマーク・キャロとジャン=ピエール・ジュネの創り出した世界にも似ている。ファンタジックな悪夢。舞台転換で挟まる映像は悪夢的だ。モノクロームの世界で彼女の次章と前章を分ける。フランケンシュタインの怪物は、家族を欲し、その移植された脳の持ち主の様に博士を恫喝した。厳密にいえば違う行動であるが、ベラも帝王切開の痕を訝しみ、彼女の家族や過去を見るために結婚式に乱入してきた夫の元へと帰っていく。彼女は男どもの「運命の女」でもあった。
旅を通して人間の汚さを見る彼女はまたダンテの「神曲」煉獄編を彷彿させる。

あらすじばかり書き立ててしまったし語り足りない…とにかくめっちゃ良かったあと2回くらい観たい。あとエマ・ストーンとシャロン・ストーンが訳わかんなくなってる自分に絶望した。「氷の微笑」いいよね…

それと、字幕で「哀れ」という言葉を強調しているのも気になった。原題のpoorが表すところは多く、日本語の「哀れ」もまた時代により変わってきた言葉であることも面白い。もののあはれ。よくよく考えれば「あはれ」の示すのは、人間の加虐性からその「哀れ」な状態を「愛おしさ」に変換しているのかもしれない。本作はそういう話でもあるだろう。
黒川

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