鴎賀多亜漫

哀れなるものたちの鴎賀多亜漫のネタバレレビュー・内容・結末

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

 これはー、金獅子賞ですわ。
 PVを見た瞬間から心を捕まれた。なんと綺麗な映像、そして官能的な音楽。その二つが絶妙な美のもとに集っているように感じた。さらにこの映画の驚くべき点はこの感想は映画を見ている時、一瞬たりともこの感想が揺らがなかったことだ。全てのショットの綺麗さと全てのサウンドの官能がマッチし、常に見るものに不気味で不快な美を植え付ける。ここからはその映像と音楽について語っていこう。
 まず映像だが、まあ構図と色の使い方のうまいこと。この映画は常にベラの見える世界が広がっている。観客の我々のこの世界への視点はベラのものと同じであり、彼女がこの世界をより鮮明に感じると共に我々もその世界の色を知り始める。文字通り、この色というのは映像の色のことでもある。最初、この映画はモノクロから始まる。これは彼女がまだ世界を認識しきれていないということの直接的な表現である。そんなモノクロの世界が変わる瞬間がある。それがベラがゴッドの邸を出た瞬間である。日本には「可愛い子には旅をさせよ」という諺がある。ここで言いたいのはまさにそれだろう。彼女はうちなる世界しか知らなかった。そんな小さな世界で彼女が見つけた幸せになる方法、それは自慰だ。このモノクロの描写期間のなかでもそのシーンは印象的である。私が男性というのもあるかもしれないが、この印象付けにはとある仕組みがある。それがマッキャンドルスというキャラクターである。彼はベラの記録係ということもあり、この奇妙な世界に入り込んだいわば我々である。そんな彼はふとしたときにベラのはだけた胸元を見てしまう。そのシーンは我々にとっても衝撃的だ。エマストーンのたぐいまれな演技力は我々にベラを「赤子」と認識させた。しかし、そのショットで我々とマッキャンドルスは知るのである。彼女の肉体は成熟した女性であると。その衝撃が残るうちに彼女は自慰を知る。この流れのテンポ感は実に心地よいものだった。計算されていると考えるべきだろう。脱帽だ。さて、色の話に戻る。ここで一つ説明不足であった部分を説明させていただきたい。色がつく瞬間、それがベラとダンカンの性行為のショットだということだ。それを見る我々の感情はぐちゃぐちゃにされるが、ここにも実はしれっとマッキャンドルスを登場させている。ベラはマッキャンドルスを鳩に例えて駆け落ちした。そしてこのシーンにはしっかりと写っているのだ、鳩が。それは直近のシーンの言葉を連想させ、われわれの脳裏にマッキャンドルスを連想させる。それは至極不快な体験だ。しかし、そのマッキャンドルスの像がわれわれの心の拠り所として存在している風に感じられるのもまた監督の腕としか言いようがない。そのシーンは人間的官能ではなく、生物的なエロティックを感じる。そして、これから人になるにつれて、ベラの性行為は人間的官能を帯びるようになってくるのだ。
 続いて音楽について語ろうと思う。ハープだろうか。不規則にピッツィカートをかけたような音色は女性の持つ得たいの知れない魅力を感じさせる。また、この映画の素晴らしい点を一つあげさせてほしい。それは初めて「ベラ」を映すシーンに不協和音のピアノを用いたことだ。それにより観客はこのベラという存在にいくぶんかの不快感と狂気を感じる。そしてその狂気が育ち、やがて魅力へと変わり行く様を楽しむのがこの映画なのだ。よってラストシーンは綺麗な音色で幕を閉じるのだ。
 さて、そうした編集面でも素晴らしいこの作品だが、全てはエマストーンという無類の役者がいてこそである。彼女の演技は素晴らしい。彼女自身もこの撮影のためになにかを解放したのではないだろうか。特にそれを感じたのはダンスホールのシーンでの奇っ怪なダンスである。あれはまるで幼児が拙い自己表現をする際のものと酷似しているばかりか、まさにそれだったのだ。彼女には是非ともアカデミー賞で主演女優賞をとってほしいものだ。
鴎賀多亜漫

鴎賀多亜漫