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パッチギ!の教授のレビュー・感想・評価

パッチギ!(2004年製作の映画)
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まず、左翼思想の凝り固まった偏狭の「自虐史観」の映画である批判は受け止める。
本作は「日本人」という主語を強く観れば偏って見える作品である。
それは認めるのだが、そんなことを日本人として、日本人の側で言って怒ることに意味や理由をあまり感じない。
ただ、危惧することとすればこれを「反日」と怒り狂って実際の在日朝鮮人への憎悪を掻き立てるような人間の精神状態を心配するのみ。

というわけで。
自分の体験として、高校時代の自分。故郷の風景を思い出す映画でもある。
自分の場合に置き換えても、本作の舞台となる1968年とは20年の隔たりがあり、京都と僕がいた北九州では地域の差こそあれ、僕の青春時代にも同じ在日朝鮮人で主人公のアンソン(高岡蒼佑)のような奴がいた。風貌は少し違うが、ドロップキックとパッチギ(頭突き)を駆使して、本人曰く「一度も喧嘩で負けたことがない」というぐらいに滅法強かった。
とにかく足が速くて、どこから聞きつけたのか俊足で喧嘩の場に現れ一撃で優位を決する。アンソンの走りっぷりに「彼」を強烈に思い出した。

1968年という時代設定柄、ノスタルジー色の強さの中に浮かび上がるのは、当時の世相にかぶれた布川(光石研)のような毛沢東主義の教師がストリップ小屋の客引きになっていたり、フリーセックスとドラッグを求めてスウェーデンに放浪する坂崎(オダギリジョー)、あまりにも唐突に登場するリベラルなラジオ番組のディレクター大友(大友康平)など、無邪気な時代への憧れと偏狂さが同居していて良し悪しなのだが、個人的には憧れが勝ってしまう。

何分、自己投影が強い作品なので、街の風情であったり、質感であったり、そこに住まう人々は誇張であれ、僕自身の原風景に近い。
地元のヤンキーの軽薄さとイキりから湧いてくる差別心。「日本人」とは違う鬱屈を横目で見ていた分「在日」の少年たちの不良性や「ヤバさ」は実感できる。

なので様々なシーンで泣いてしまうので評価は甘くなってしまうのだが、終盤のチェドキ(尾上寛之)が命を落とす件の走り抜けるバイクをかわし、走行中の車に撥ねられそうになるのも急停止でかわし、からの積荷が頭部を強打するという展開は、映画の盛り上げを優先した展開が過ぎていて人命の軽視を感じてマイナスに感じる。
また、そのチェドキの葬儀に際して康介(塩谷瞬)が日朝の分断に打ちのめされギターを破壊した瞬間に、すぐさまラジオ曲に手ブラで行くシーン運びはあまりに唐突だし、興醒めもしてしまう。

結果的には、色々曰くつきになってしまった出演者多数な点も含めて、作品のテーマも含めて、複雑な気持ちになりながら大泣きした。
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