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悪は存在しないの傘籤のネタバレレビュー・内容・結末

悪は存在しない(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

巧が言う「バランス」というのは、村民と芸能事務所という人対人のことではなく、人と自然のことを言ってるんだろうなと思った。自らを「余所者」であると自覚している彼は、人と自然の調和こそを重んじる。しかし「自然」は人が考えるような論理に基づいて成り立っているわけではない。鹿が人を襲うわけがないと考えたところで、それはあくまでも人間の想像力と論理に当てはめたことでしかなく、偶発的に起こることは起こる。
そしてこの映画は登場人物たちを俯瞰的に、つまり「自然から見た人間」という客観的な視点で映しているように私は思う。カメラは人々に焦点を当てはするものの、移動する人物が見えなくなってもそのままパンし続けるし、車で移動していても車内や進行方向ではなく、通った道の方を映したりする。そういう距離感が、離れた場所からの視点が常にこの映画にはあり、その視点はおそらく「自然」からの視点だろう。巧がバランスを重んじようと、芸能事務所の男が村に籍を置こうと、自然からすれば関係のないことなのだ。
長野県の山村にグランピング施設を建てることの是非や、住人と芸能事務所の人間の摩擦に焦点が当たっているため、一見すると「立場や見方が変われば違った人間性が見えてくる」「だからお互い歩み寄ろう」そんなありがちな文脈に沿って話が進行しているように見えるだろう。実際そのような文脈である程度話づくりをしている。しかし最後にそれらは一気に崩壊する。唐突に感じるほどの暴力性を伴って。
しかしこの映画の視点は最初から最後まで巧や村民、ましてや芸能事務所の人間には当たっていないのだ。彼らの言葉や行動を映してはいるものの、あくまで表面的な(しかも一面的な)部分しか切り取っておらず、内面にフォーカスするような撮り方はしていない。なぜならこれは自然から俯瞰的に見た映画だから。
巧が芸能事務所の男の首を絞めたことは、おそらく巧の中では理にかなった行動なのだろう。息を引き取ろうとする娘の代わりに芸能事務所の男を絞め殺すということは、彼にとっての”バランス”なのではないか。一見不可解な巧が取ったラストの行動はそのような論理が彼の中にはあったのではないかと想像する。
だから娘が助かったかどうか、男が死んだかどうかはこの際関係がない。それはこの映画において重要ではない。自然は自然でしかなく、バランスは人が決めた以上のものでも以下でもない。そこに正義という倫理観は存在せず、悪もまた存在することはない。
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