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悪は存在しないのJFQのネタバレレビュー・内容・結末

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

自分はいわゆるシネフィル(映画愛好家)ではないけれど、そうした人たちの感覚も分かる気がする映画だった。スクリーンの中に「ひとつの世界」が確かに存在しているという感じで(シネフィルっぽく言えば笑)

それにしても。本作もまた「誰が悪とはいえない系」かよ、と。「怪物」にせよ「落下の解剖学」にせよ、そういうのばっかりやないかと。いや、それの裏返しである「みんな違ってみんないい系(エブエブとか)」ともども、なんかそういうふうに撮れば世界で賞が撮れますよ的な「傾向と対策」が流出してるんではないか?なんて思ってしまう(笑)

さておき。本作は、そうした「誰が悪とは言えない系」が増えていく背景について考えさせてくれると共に、そこから一歩「奥」に進もうとしているのだろうとも感じさせてくれ、興味深かった。

ひとまず、あらすじを追っておくと。映画の舞台は長野県の山村。そこには「村の便利屋」の巧と娘の花をはじめ、水の清らかさに惹かれ移住した蕎麦屋の夫婦や、土建屋の青年、区長の老人などがつつましく暮らしている。だが、そんなのどかな山村に、ある日、グランピング施設の建設計画が立ち上がる。計画者は芸能事務所。だが、コロナがらみの補助金が目当てのため、計画は穴だらけ。当然、村の人たちは怒る。で、説明会は紛糾。しかし、その後、村の声を聞いた芸能事務所側の高橋と黛は、紆余曲折あって、社の方針に疑問を持つように。そして、2人は巧と共に行動するようになる。そんなある日、行き違いから、花が行方不明に…。森の中を探す巧と高橋&黛。だが映画はその後、予想外のラストに向かう…。

さて。なぜ近年、「誰が悪とは言えない系作品」が増えていくのか?
それは「近代的な世界認識が成り立たなくなってきたためだ」と映画は言う。言っているのだと思う。(これについては「ドライブマイカー」のレビューでも書いた)。
そして本作はそのことを「分けられるもの/分けられないもの」というモチーフと共に描き出す。

映画は冒頭、森の風景を映し出す。画角は下から上。後で分かるが、娘の花が、上を見上げながら林道を歩いている(ようにみえる)映像となっている。けれど観ているうち、不思議な気分になる。何というか、木が画面の下から上に浮遊している気分になるのだった。つまり、水平に森を歩いている人が見上げた映像のはずが、木が垂直に浮遊する映像に見えるという。「水平」と「垂直」の混濁…。不思議な浮遊感…。

そして、この「水平なのか垂直なのかぼんやりする映像」と対比する形で展開するのが、父の巧を映す映像だ。映画は、森の映像の後、斧を上から下に振り下ろし薪割りをする巧のカットに切り替わる。そこでは、木が薪へと、どんどん「分割」されていく。その後出て来る「鳥の羽はチェンバロに使える」という区長のくだりや、巧の「これはアカマツ」「これはクロマツ」…などのくだりもふまえると、言わんとしているのはこういうことになるかと思う。

もともと世界(自然)とは「つながっているもの」「分けられないもの」なのだと。けれど、(自然の一部でもある)人間は、いろんな都合でそれらを上から目線で分析し、「これは薪に使える木」「これは楽器に使える羽」「これはアカマツだ」「それはクロマツだ」と、分けてきた。このように「物を分割する認識をして=近代的な認識をして」人間は社会を発展させてきたのだ、と。
けれど、ある時期以降、分かれたものがつながり出した。人、物、金の自由移動が、人類をさらに豊かにするとして。また、インターネットによって場所を超えたつながりが生み出されることによって。そして、今や、世界は1つになった(グローバリゼーション)。

つまり「分けられない世界」を分け続けたはずが、気づけば世界は(再び)分けられなくなっていったのだと。そして、自然とは区別できるはずだった(自然を操作できると思っていた)人間も自然と分けられなくなってきた。いや「分けられる」という認識にリアリティがなくなってきたといえばいいか。
このことが「ややこしいこと」=「誰が悪とはいえない」を生んでいく。

例えば、「グランピング施設建設説明会」の光景。そこでは、事務所側の穴だらけの計画に対し、村の区長がこんな事を言う。「物事は上から下に流れる」「上が”負”を押し付けて終わりにしようとしても下から反発をくらい結局うまくいかない」「だから上がしっかりしてほしい」…と。こもっともではある。

けれど、映画は「上=悪」「下=善」のようには描かない。ストーリーが進むにつれ、「上(芸能人様)」もまたコロナ禍で金が稼げないこと=「下(庶民)」から金を払ってもらえないことを描き出す。つまり、「上」と「下」はつながっているというが、「下」と「上」もまたつながっていて「円」になっている。だから、どこがスタートだ、どこがゴールだとはいえなくなっている。そのため、誰が主導で、何かを、やった、とは言い切れないのだと。

このように、左から右に行ったと思えば左に、上から下に行ったと思えば上に、悪に背を向け善に進んだと思えば悪に…世界がつながり分けられなくなったことが、「誰が悪とはいえない=悪は存在しない」につながっているのではないか?と。
近年、「誰が悪とは言えない系作品」が増えていくメカニズムをうまく描き出せていると思う。

さらに、映画は「その奥」に進む。キーワードは<自然>だ。ただ、この<自然>は「人間/自然」の区分で語られるそれとは微妙に異なっている。「<自然>/自然/人間」というか…。一体、何を言っているのか?

言わんとすることを理解してもらうには、建設説明会での主人公(巧)の発言を思い出してもらうといいだろう。グランピング施設の建設計画を何とか押し通そうとする芸能事務所側の担当者たち(高橋&黛)に対し、主人公はだいたいこんな事を言う。
「俺たちは別にあんたらの敵でも味方でもない」「ようは自然と人間のバランスだ」「そのバランスを示せる建設プランを出してくれれば俺たちはあんたらに協力する」と。

これまた、ごもっともに思える。けれど、大事なのは、これは「人間側の発言」だということで。逆に言えば、「人間と自然のバランスがとれれば、我々自然はグランピング建設に協力する!」みたいなことを自然の側は言っていないということで、、ここが重要になる。

映画では、自然のあれこれについてやたら詳しい主人公の姿が描かれる。しかし、彼の認識とて「人間目線の自然理解」を超えていない。<自然>には<自然>の目線があるのではないか?映画でいえば車のバックに取り付けたカメラが映す「誰目線」ともいえない映像のように。
そこで、映画は「人間目線の自然理解」を超える<自然>を描き出す。描き出そうとしたのだと思う。それが「なんなんこれ?」な、ラストシーンなのではないかと。

一応なぞっておくと、映画のラストはこんな感じになる。紆余曲折あって、娘の花が失踪。主人公の巧と、芸能事務所の高橋は花を探し森の中を歩き回る。すると目の前に花と鹿が…。鹿は臆病なため、基本、人間を見ると逃げるのだが、怪我を負った「手負い鹿」は獰猛になり人を襲うことがあるという。そんな鹿の脇腹には銃痕が…。このままでは花が…。
と、その瞬間、巧は急に隣にいた高橋の首を絞めはじめる。「なんで…」と意識を失う高橋。その一方で、気づけば娘・花は倒れ、鹿は姿を消している。首を絞め終えた巧は、花を抱え、森の中を進んでいく…。そして日が沈み、闇が辺りを支配し始める中、タイトルバックが出現…。「悪は存在しない」。

一見すれば、タイトルに反し「悪しか存在していない」ようにみえる。なにしろ、主人公は娘を救いに行くこともしなければ、(考えが浅いとはいえ)自分に協力した男の首を絞めてもいるのだから。そもそも「あんたが娘のお迎え時間を忘れるからこうなったんだろう…」と。もっと言えば「人間都合」で鹿を撃つからこうなったんだろうと。
けれど、映画を観るものは、ラストのクレジット(「悪は存在しない」)を目にした際、「なんか分からんけど分かる」という気にもなれる…。これは何だろうか?

たぶん、これは「自然の外にある<自然>」を描こうとしたのだと思う。この<自然>とは何かといえば、主人公が言う「人間とバランスが取れる自然」の「外側」にあるものだと思う。つまり、どれだけ人間が「これはアカマツ」「シカは××しない」と言おうとも、それは「人間の理解」にすぎなくて。その「外側」にあるのが<自然>なんだと。だとすれば、<自然>は絶えず人間の行動を裏切ってくると。

それを描き出したいのがラストシーンではないかと。つまり、「手負いの鹿」は人間を襲いうると。そこで人間が「やめろー」と騒げば、なおさら襲ってしまうと。それでは娘がやられてしまうと。そこで、(自然を知らない)高橋が自然に介入する前に、巧は、首を絞めたのだと(※注1)
けれど、どこまで行ってもそれは「人間の理解」にすぎないと。つまり、そうしたからといって鹿が襲わないという保証はないと。

現に、巧が「優れた自然理解」を示そうが、娘が無防備に帽子を脱いで(文明を脱いで?)鹿に近寄ろうとすることまでは読めなかった。その結果、鹿はおびえ花を襲ってしまった、と。つまり「人間の理解」の外側=<自然>が顔を出したのだと。

そのことを描くために、この「え?なんなんこれ?」なシチュエーションが必要だったのだ、と。そういうことじゃないだろうか。

我々が「悪意」から動こうが「善意」から動こうが、それをとん挫させてくる<自然>があると。その<自然>こそが見た目「悪しか存在していない」にもかかわらず、観るものに「悪は存在しない(悪意は存在できない、悪は実現できない)」と思わせる何かを生んでいると。

けれども、これは面倒なことでもある。たとえば我々は今、地球気温の上昇を2.0度以下にとどめなくては気候変動の影響で人々が暮らせなくなる、などと言うことを言っている。けれど<自然>を考えるならどうだろう?仮に2.0度以下にとどめたとしても、それは「人間側の理解」を超えないのではないか、と。「手負いの鹿(地球?)」と人間の「バランス」は保たれることはあるだろうか?と。そんなことを思わされた。


(※注1)このシーンについては、自然について軽薄な理解をする高橋への怒りが「首絞め」につながった、とする解釈もあると思う。だとしても、巧は娘を助けるべき場面で、自分でも制御できない怒り(<自然>)に翻弄された…と理解すれば、自分の言いたいことはそこまで変わらない。
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