アニマル泉

悪は存在しないのアニマル泉のレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.2
まさかの濱口竜介の失敗作である。考えすぎではないか?濱口の悪い面が出てしまった。
冒頭は英語タイトルが青字、赤字でゴダール風にクレジットされる。そして真下から見上げる木々と空の移動撮影が長々と続く。このショットはドライヤーの「吸血鬼」の伝説的なショット、運ばれる棺の死体が見上げる移動撮影を意識しているのは間違いない。冒頭から「死」が予感される。そして石橋英子による劇伴奏が断絶、いきなりチェンソーの轟音が被る、これまたゴダール的な音の響き方だ。
本作ではロングショット、長回し、横移動撮影が多用される。子供たちが何故か止まっているのをゆっくり横移動するショットはまるでストローブ=ユイレのようだ。静かに劇伴奏が忍び込んで子供たちが「だるまさんが転んだ」をしているのがわかる。巧(大美賀均)が集会所を去るときに車で遠ざかる長回し、さらに撮影の北川喜雄の発案だという森の横移動ワンショットのなかで巧が花(西川玲)を背負ってしまう長回しなどは濱口にしては作為が目立っている。
濱口十八番の車中場面、最初の高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)の場面は後ろからの背中ごしの切り返しにバックミラーとサイドミラーのミラーショットを巧みに混ぜる。2回目は真逆に正面から巧、高橋、黛を切り返す。
濱口の作風はあらかじめ構成した堅固な世界を、観客に小出しに見せていくことで展開していく。しかしこれは濱口の弱点でもある。世界はだんだんと明らかになってはいくが、世界そのものが運動していくことがない。事件がないのだ。濱口が敬愛するエリック・ロメールとそこが決定的に違う。本作も日常が反復されていきながら徐々に亀裂が入っていくのだが、事件が起きるのはようやく終盤に花が失踪してからだ。
濱口の真骨頂は素人の出演者を起用しながら、活き活きと人物を描くことにある。しかし本作ではどの人物も魅力がない。何故か活き活きしてこないのだ。グランピング開発の説明会、かなりの長い場面である。ドキュメンタリー風に提示されるのだが、場面に説得力がなくてしらけてしまう。致命的なのは巧と花が描けていない。おそらく不在の母が今の巧と花の生活や関係に大きな影を落としている。花は巧に背中からしか語りかけない。おぶられながら、あるいは絵を描く父の後ろからちょっかいを出しながら蹴ったりする。二人が見つめ合うことは避けられている。花の登場カットも横顔のプロフィールショットだ。花が唯一、真正面から見つめ合うのが手負いの鹿である。この時に距離が生まれ、殺意が醸し出される。花が帽子を脱いで長い髪が垂れるエロスは蓮實重彦が朝日新聞で指摘した通りだ。このあとの展開はいろいろな解釈が可能だ。私は巧と高橋が見つけたのは花の死体で、手負いの鹿と花の対峙は巧の幻想だと解釈している。何故、巧が高橋を殺すのか、心理的な説明は一切ない。「偶然と想像」というタイトルの作品を撮った濱口だから、それは「偶然」という事なのだろう。あるいはロッセリーニならば「奇跡」、パゾリーニならば「悪夢」という事である。しかしこの場面をどう解釈するにせよイメージの喚起力が不足している。ここは圧巻のイメージの爆発が必要だ。
ラストカットは冒頭と同じ見上げる移動撮影、今度は木々ごしの夜空と月だ。ドライヤー監督「吸血鬼」の移動する棺の死人の見た目のショットである。ここに至り、この目線は死んだ花の目線であると確信する。本作のファーストカットとラストカットは死んだ花の目線であり、本作は花が見た物語なのだ。そしてこのラストカットに巧の荒い息遣いが響き続ける。花の遺体を運ぶ巧の不気味な息遣い。蓮實重彦が指摘した「語ることなど恐ろしくて到底出来ない」事態が何か分からないが確実に起きている。
ここで本作は終わる。どうであろうか?グランピング開発、巧と花の親子の物語、全てが放置されたままだ。本作は作品として成立していない。
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