arch

アイアンクローのarchのレビュー・感想・評価

アイアンクロー(2023年製作の映画)
4.2
実在したプロレスラーファミリー"フォン・エリック一家"を題材に家父長制とトキシック・マスキュラリティについての悲劇の物語。


・呪いや運命という言葉で無視されてきた父親の圧力
本作では「呪い」や「運命」という言葉が幾度も繰り返される。彼らに降りかかる悲劇の連続は、彼ら一家が何かしらに「呪われている」からなのだと思い込み、その苗字を変えたり、妻や子供から遠ざかろうとする。
それらは現実逃避の産物でしかない。
父親からの圧力的な期待、個性を剥奪する「兄弟」や「家族」という枠組みの押しつけ(宗教的な価値観に基づく)、それらを通底するトキシックマスキュラリティ。その彼らが置かれている状況の異常性から、目を背ける為の「呪い」や「運命」。そもそもそういった概念は(『ナイトメア・アリー』に描かれたように、)信じた瞬間から立ち表れてしまうものだ。
彼らの悲劇は必ずしも明確な1つ原因があった訳では無いのは事実だ。しかし大きな要因として、父親の兄弟への負荷は確実にあり、そのことに気づくまでの話、或いはただ一人になるまでそのことを直視出来なかった話なのだ。タイトルはその頭を鷲掴みにして、屈服させるイメージがまさに父親の支配を表しており完璧である。



・死の匂い
私が映画を観る時に評価ポイントになるのは、どれだけ「予感」させるかだ。 特にそれが「死の予感」なら尚のことだ。なぜなら映画とは現在進行形の死(突然死ぬ瞬間が訪れる人生)を描くのに最も適している媒体だから。

本作はその死の瞬間は描かず、しかし至る所に「死の予感」がある。デヴィッドの死、マイクの死、ケリーの死(実際は本作には登場しない6男の自死や近親の死などまだまだ描かれていない悲劇は多くあった)、どれもがしっかり血や薬、銃というアイテムによって予感が描かれる。しかし面白いのはどの死も直前には「ケビンとの会話」があったことだ。
その会話が一因となったわけでは決してないが、ケビンは止められるところにいた。或いは彼は取り残されてしまったという印象を強く感じさせるものになっていた。
その取り残されてしまったという感覚が、最期の川のシーン。見た目のままに三途の川なわけだが、この場面のおかげで開放された、或いはあちら側に逃げられたという感覚、そしてとはいえ「兄弟」の愛は確かにあったのだというエモーショナルさが伝わってくるもので良かった。


・誰かの代わり、兄弟という属性 に対するひとつのアンサー
本作で顕著なのは、父親が失った兄弟を別の兄弟で埋めようとする個々の個性や人格を否定する行為である。発端はまさに自分の本懐を子供に遂げさせようとするところにある訳だが、そのカウンターとしてケビンとその子供達の会話がある。
子供たちが献身で「お父さんの兄弟になってあげる」と言う。誰かの代わりとして扱われてきた彼が、息子たちからの真の愛情表現として"兄弟の代わり"ってなってもらうのだ。
どこか解呪されたようなニュアンスがあり、素晴らしいラストだと思う
arch

arch