一番最初に先生が言っていた点が重要で、正解に加点していく成績評価システムが生徒を萎縮させていく。その極め付けが全国学力テストである。我が国の旭川学テ事件で、なぜ教員が文部省職員に暴行してまで学テを阻止しようとしたのかがわかるだろう。
人間は失敗する。悲しい真実だ。ときに取り返しのつかない失敗もする。でも、生きている限りは生きていかなければならない。失敗から学べる人間は、たぶん、人間の弱さや愚かさや壊れやすさを理解できている人間でもある。そして、理想は転ばぬ先の杖を手に入れることであるが、社会に出てからも人は失敗の連続である。そうであれば、社会に出る前の義務教育課程では失敗して当たり前、むしろ失敗することが奨励されこそすれ禁圧されるべきではない。高等教育課程でももちろん同じ。どれだけ失敗できるかが成長の鍵であり、失敗を禁圧する成績評価システムは端的に誤っている(が、それが今の日本の教育システムだろう)。
ニコが因果から外れられず銃撃戦でパロマを守ってギャングと相討ち、ただニコが守ったパロマはその後、ゴミ拾いの父の理解を奇跡的に得られ宇宙飛行士の夢を目指せた。
もしこの教師が来なければ、たしかにニコはまだ生きていただろう。ギャングとして。その意味では、たしかにこの教師のせいでニコは死んだのだ。教育とは、かくも恐ろしい、人の人生ときには生死をも左右する営為なのだ。…しかし、これは考えてみれば、人と関わり考え方に影響を与える行為全てに言えることでもあるのは、『ルックバック』や『CLANNADアフター』を見ればわかるだろう。大切なのは、その時点で最善の判断だったなら、その選択が不幸な結末を呼び込んだとしても、折れないことではないだろうか。根源的な偶有性(「人間万事塞翁が馬」)に支配された世界でそれでも自分(たち)の手綱を握ることを諦めないとしても、やれることはそれくらいであるということでもあるが。