しの

ありふれた教室のしののレビュー・感想・評価

ありふれた教室(2023年製作の映画)
3.9
非常にスマートだ。100分切るタイトさ、舞台はほぼ校内のみという潔さだからこそ、不信感の伝播を身に染みて感じられる。ある綻びから収拾がつかなくなっていく感じは、真実ではなく「それっぽいか」が全てを決定してしまう現代社会の縮図だ。よくここまで「あれよあれよ感」出せるな。

じゃあどうすれば良かったんだ……と分からなくなる映画ってあると思うが、これはそうでもない。どう考えてもあれは悪手だろうという一手があるし、やたら話が拗れるような動きをするキャラクターもいる。むしろ本作は、何がいけなかったかという建設的な議論すら掻き消えていく過程の体験なのだ。

そもそもこの話、生徒側に「あんなこと言っといて内心めちゃくちゃ疑ってきてるじゃん」という不信感を与えてしまったところから全ては始まっている。それが仮に合理的な「証明」方法だったとしても、関係ない。その過程で一度与えてしまった印象はなかなか覆らず、そこに「主張」を見出されてしまうからだ。

主人公の先生は板挟みのなかでなんとか寛容な道を見つけようとするのだが、職員室 vs 教室という空間がどんどん政治的な権力構造のレイヤーへと変容していき、アンビバレントな部分はどんどん無いものとされていく。クラスの挨拶すら圧政の象徴であったかのように「解釈変更」されてしまう。つまり、教師とは本来は職員室と教室を行き来するはずだし、もっと言えば教師である前に一人の人間である(だから間違いも犯す)はずなのに、そういった微妙なニュアンスは一瞬のうちに消失し、単なる糾弾の対象になってしまうのだ。そのインスタントさは反体制の中でも分断を発生させる。

そこにメディアが作用するともう手がつけられない。真実なんてもはやどうでもよく、対話や釈明の機会も失われ、他者へのリスペクトは消失してゆく。渦中の生徒がお金で解決しようとしてくるくだりなどは本当に悲しかった。もはやあれは個人と個人でも、生徒と教師の関係性でもなく、あるのは対立の図式だけだ。だからこそラストが効いてくる。訪れた静寂のなか、ようやく二人が正面の切り返しで見つめあう。しかし、そこではかつて二人を繋いでいたもの=「正しいアルゴリズムでの証明」が皮肉に映るだけのようにも見える。指揮者と玉座。この二人の関係はそれだけじゃなかったはずなのに……という余韻。

とはいえ、流石に生徒と教師の関係性に最初から余白がなさすぎるし、そこは意図的に削った作りになっていると思う。しかし、観ているうちはひたすら不信感の伝播を眺めるしかなく、気づけばあのラストに到達している。結果的に、世界にはもっと余白があって然るべきなのではないかという反語の体験になる。秀作だった。
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