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秋刀魚の味 デジタル修復版のmoggadeetのレビュー・感想・評価

4.5
この映画においても、脚本はほとんどなにも語らない。

画面を見渡しても物語を駆動させる仕掛けや伏線や設定が配されているわけではない。マクガフィンのような作劇上の虚焦点はいっさい見当たらない。小津はヒッチコックと対極にいる。娘の見合い話を友人らとした後、すぐに結婚式のシーンに持って行くような監督だ。心理劇で最も重要な登場人物の心の内を(直接、あるいは隠喩のように)描こうとする積極的な作劇や演出は極力排除する。

娘が父親に嫁入り前の感謝の念を伝えようとしても小津は「わかってる、わかってる。しっかりおやり」と押しとどめ、そのあとはただ路子のローアングル・フィクスのワンショット。(なんとも言いようがない)岩下志麻の微笑みですべて語らせようとする。

鑑賞する側はまったくそんなことを意識しないのだが、小津作品がこのほんの微かな(「なんとも言いようがない」とか「なんだか同じ反復ではないようだ」という)攪乱のなかに、大事なことを徹底的に縮限しているのは間違いないことだ。登場人物の心理はほとんど、俳優の霊妙な(と言ってよかろう)表情筋の動き、オウム返しなセリフ回しの微妙な変化に現れる。そこに集中している。おぼろげな違和感は、緻密な編集によって、美術セットや外景のフィクス絵(その絵画的構図もこの映画ではとくに洗練されてはいるのだが)が押し流していく。だから、オーディエンスはいつの間にか画面から一瞬も目をそらすことができなくなる。圧縮されているポイントを見逃すことができないから。そこに小津作品の映画的快楽があるから。

小津は見せたいものを隠しているわけでなく、もったいぶっているわけでもなく、――ふたたび強調しておくが――それを高度に縮限している。

(小津作品については、演出にはとくにハリウッド映画などとは別の機能、つまり縮限という機能を与えられていて、これについてこまごま書きだすときりがない。とまれ、猛烈に繊細で完成されているのだが、それはまた別の話だ)

+ + +

失恋をした路子が薄暗い部屋で机に向かっている。丸めてはほどく洋裁用のメジャー。
「そうかね」「そうさ」「そうかなあ」「そりゃそうさ」と酒を飲みながら話す友人たちのとりとめのない反復のみで成立する会話。

シークエンスごとに小さな円がぐるぐると廻っている。この小さな円は、それ自体はどこにも物語を運ばない。
しかし、とてもささやかなものだけれども、小津作品だってそれでもやはり物語はいつもどこかにたどり着く。物語を動かすのはつねに映画内では語られず、画面の外にある。

旧制中学で漢文教師として教室で厳しかったヒョウタンせんせいはいまはうらぶれた中華料理屋をやっているが、それはおそらく日本が敗戦し戦前の教育機構が解体され辛酸を舐めたせいだろうがこれも画面のうちでは語られない。ただヒョウタンは、自分が忘れられていないことに喜び、泥酔し、ため息をつく。
周平が通いつめるバーのマダムは、(息子にはわからないが、彼からすれば)亡き妻の面影がある。しかし妻については画面のうちで語られない。
路子が好きだった三浦は、かつては路子に好意を持っていたものの画面の外ですでに良い人を見つけていて、いまはもう路子に関心がない。

これは、一般的な「設定」と呼ばれるものではないように思える。
そういうものとは異質な感触がある。

考えてみると小津作品には、シークエンスごとに小さな円軌道を描いて足踏みを続ける主人公たちをふっとずらす「運命」的なものは、いつも画面の外にある。それは円が小さくささやかだからこそ「運命」とも言えるような地位にある。小津作品というのは、(世界を救ったり破壊したりするような巨大なものではなくても、いつでも)運命を主題としているように思えるし、とくに『秋刀魚の味』を観るとそれを再確認する。おそらくその理由は「敗戦」という挫折が背景にあるのだが、ここに立ち入るときりがないからもう書かない。

+ + +

娘の結婚式に、周平は泥酔してバーに立ち寄る。マダムは「今日はどちらのお帰り? お葬式ですか?」と声をかける。お葬式なわけがない。彼は喪服を着ているわけじゃない。葬式にレジメンタル・タイなど締めていくはずがない。
しかしここでマダムは「お葬式ですか?」と軽口をたたく。きっと亡き妻ならそんなことは言わないはずだ。マダムは妻のなり代わりではないことが、今夜の彼にははっきりとわかる。

流れる「軍艦マーチ」。店の隅で飲んでいる男が「大本営発表…」とあの有名なラジオ放送の真似を始め、「負けました」と言う。もうひとりの客が「そうです、負けました」と応え、笑いが生まれる。
いつも微笑みをたたえている周平は、すこし泣きそうな顔でウイスキーをストレートで呷る。彼は娘を失い、同じ日に妻の面影を失い、国を失ったことも想起する。どんな儀式も(結婚式すらも)喪である。運命によって吹きやられた証しとしての儀式があり、それに続く喪によって、いま自分がどこに生きているのかを人間は一度見失わねばならない。

(映画ファンはこの特異なシーンをどう解釈するんだろうかと思って検索してみると、「マダムは、周平が自分と亡き妻を重ねていることを拒絶するために、わざわざこんな軽口を叩いているのだ」という見立てもあった。なるほど、もしそうならば、マダムは唯一この作品のなかで、主体的に小津の準備する運命から逃れようとしている人物だということになる。が、すこし考えづらいように思う)

+ + +

小津作品における戦争/敗戦の問題、精緻な照明演出、東野英治郎と杉村春子のすばらしい演技、笠智衆・加東大介・岸田今日子の「軍艦マーチ」シーンの意味、冷蔵庫を買って変化する長男夫婦の関係、横顔のショットを多用する結婚式が終わった夜、暗い階段(その先には娘の部屋がある)を見上げる父と死の気配など、いろいろ語りたいことは尽きないんだけれどここまでにする。

この映画は数回観ているけれど、デジタル修復版はほんに素晴らしいです。画面の精細さも素晴らしいし、セリフも聞きとりやすい。

駄目映画が好きな自分としては、欠点がまったく見つからないこの作品を称揚するのは内心憚られるわけだけれども仕方がない。良いものは良いし、好きなものは好きだ。ぼくはこの映画が好きだ。
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