このレビューはネタバレを含みます
ぼくは「西部劇」という映画ジャンルの根底には、「法とはなにか」、「法の起源とはなにか」という問いかけがあると思っていて、それはすでに書いたリチャード・ブルックス『弾丸を噛め』(1975)の評でも少し書いた。この映画でも「法の起源」と「法と法の衝突」が物語の推進力となっている。(言うまでもないことだが、西部劇が衰退していくと替わって刑事劇が法を主題に据えるようになる。)
いきなりポール・ニューマン渾身の、狂気の殺戮シーンに始まるこの映画、しかし死体が転がる凄惨な舞台にすぐにふらりとやってきた牧師(アンソニー・パーキンス)が神の秩序を示し、ニューマン扮するロイ・ビーンの法の創立宣言を後押ししつつ一定の統制を施す。サルーンに貼られたリリー・ラングトリーのブロマイドはさながら聖母のイコンだ。メキシコ国境の無法地帯に、彼なりの法の統治(無茶苦茶だし滑稽なものだが)に基礎づけられた小さな町を築く。
ロイ・ビーンの統治と経済の原則は、矛盾しているが無法にあった。無法を取り締まりながら、その事件解決によって得られた没収金(要するに略奪によって獲得した金品)の分配、ポーカー、荒くれ者たちに提供するサルーンの酒代(ビーンの機嫌で、日によって変わったりする)だった。
ビーンは無学な男だったが、それなりに本を読み、自由に解釈をし、はったりをつくこと(つまり説得の技術)をおぼえ、暴力だけに拠らない彼なりの統治を試みる。小さなエピソードが積み重ねて彼の統治がどういうものであったかを示すんだけれども、(相変わらず暴力は過剰気味だが)牧歌的を通り越して、まるでファンタジーのような統治が描かれる。彼の統治は動物界にまで及び、ビーンは人語を介しているかのような熊をいつも従える(この熊の演技力が猛烈にすごい。なにあの熊)。そして妖精のような少女マリー(彼女はいつもきれいなドレスを着て、たいてい裸足だ)と恋をする。
彼の特異な統治が破綻を始めるのは、5人の部下たちへ無法経済によって得た娼婦をあてがい、妻にさせたあたりからだ。娼婦たちは、これまで町の外の経済(このエピソードは女衒のぼったくりへの制裁がきっかけであり、町の外にも無法という法は存在する。ただ、ビーンの街の無法=法とは違う)に従事していて、外部を知っている。次に、土地の所有権を主張してインテリの弁護士がやってくるが、これも町の外に広大な別の法治があることをビーンに知らせる。ビーンは自分の街にいる限り、つまり彼の統治のきっかけであった最初の殺戮とセットにして牧師が作った墓地があるこの町にいる限り、土に根が生えたかのごとく動じない。だが少しずつ、無法の外の無法は街に侵入を始める。
地に根差すビーンの法/無法を象徴した熊が、まず弁護士の差し金で殺されてしまう。地の力が降下していく象徴だ。彼はリリー・ラングトリーの公演があることを知り、近隣の大都市へ出かける。通信販売のタキシードでめかしこんで出かけるのだがその様は笑いを誘う。都市の資本主義的な無法のなか、彼はリリーに会うことができず、痛い目に遭い、失意のまま自分の町へ戻る(本来は天上界にいるリリーと実際に会いたい、眼差しを交わし、言葉をかけてもらいたいという傲慢が、彼を痛めつけてしまったのかもしれない)。だがそこで目にするのは、妖精のようなマリー(彼女が地上にいる聖母だったことは明らかだ)の死だ。そして、部下に裏切られ、彼は街を捨て、どこともなく去っていく。
問題はこのあと、ジョン・ヒューストンはどう結末へ持って行ったか、ということだ。残り十数分の描写が物語をどう結末づけるか。
町は弁護士ガスによって牛耳られ、石油を掘る巨大なリグが立ち並ぶ、人口は多いが暗い町へ変貌してしまっている。その頃はセオドア ・ルーズベルトの時代(『弾丸を噛め』と同じころ)であり、車は駆け回り、公権力が雇い入れたギャングと警察権力が幅を利かす新しい無法のディストピアだ。ビーンの部下たちは落ちぶれ、サルーンはビーンとマリーの間にできた娘が継いでいるが立ち退きを迫られている。そこに馬に乗った時代錯誤な格好のビーンが登場するのだ。アル中の部下に馬の上から「正義は忘れたか」と問うビーン。サルーンで娘と会い、仲間たちとポーカーをし、包囲している警察や無法者に発砲する。ディストピアはあっというまに燃え上がり崩壊する。ビーンは「リリーのために」と炎に照らされて叫ぶ。
この結末はもとの脚本にはないシーンで、脚本を書いたジョン・ミリアスをとりわけ激怒させた。ヒューストンの思いつきの結末だったのだが、セットが大がかりなこともあり追加撮影には資金を相当使ったらしい。
これを撮ったがゆえに、最後のパート、ビーンの死後に老いたリリーが町を訪れ、ビーン記念館を訪ねるパートがどうにもおかしくなってしまう。ゴッサムシティのように泥濘でびちゃびちゃで、倒壊したリグで町はくず鉄の山になったはずなのに、その数年後はまた砂漠の町に変わってしまっている。あまりに背景の質が違いすぎる。「石油は枯れてしまった」のナレーションで済ませるには違和感てんこ盛り笑ってしまう。
そして、ビーン記念館の館長(彼はもともとサルーンのバーテンだった)は「ビーンは死にました」と言う。どういう死にざまだったのか語られないが、ディストピアでの大暴れで死んだわけではなさそうだ。
あのビーン無双パートをどうとらえたらいいのか。
ビーンの娘は会ったことがない父親のことを「ローマの英雄のような(人物)」と表現した。ほとんど神話の世界の住人だし、ここまで観ていた者は古代ギリシアやローマの都市創建神話のようなものだったんだと気がつくだろう。
創建した者によって打ち立てられた法が鉄槌を下すという結末、しかもそれもすぐに忘れられて「記念館」に押し込められてしまい、砂漠の砂と化すという結末は、『弾丸を噛め』とは真逆のものだ。この終末論的で安直なエンディングをどう評価したらいいのか、なかなか難しい。いまだにどう考えたらいいのか整理がついていない。嫌いじゃないんだけども。
ビーンはヘラクレイトスなど知らなかっただろうけれども、まあ、彼の怒り(ヒューストンの怒り)はこういうものだったろう(しかし西部劇だって、資本主義を利用して隆盛を極めていたのだ)。
最もすぐれた人たちは、
すべてのものに代えて一つのものを、
すなわち死すべきものに代えて「不滅の」栄誉を選ぶ。
しかし大多数の者たちは、
家畜のように腹一杯むさぼり尽くしているだけである。
(ヘラクレイトス 断片29)
+ + +
いくつかのおまけ。
1
バッド・ボブが好き。
2
熊を置き去りにしていくぶつくさ文句ばかり言っている調教師はジョン・ヒューストン本人だ。
これで2度目か3度目の鑑賞だけど、今回はじめて気がついた。
3
マリー役のヴィクトリア・プリンシパルはとても愛らしい。
ずっと裸足だったと思うが、この演出がたいそう効いている。
この撮影をきっかけに、彼女は牧師役のアンソニー・パーキンスと付き合っていたらしい。
許せない。
4
無双パートのポーカーシーンはかっこよすぎてヤバい。
あれは娘もしびれてしまうはず。
5
信心深いメキシコ人たちはマリーの死のシーンまではいる。
彼ら/彼女らにはまったく台詞がないが、ディストピア化した町にも、ラストにも、もう出てこない。
彼らはビーンによる無法/法の創設のときに居合わせたひとびとで、その証人だ。
創設の証人/記録がないところに法は実効性を持てない。
ビーンの無双シーンに彼らの姿がないことは、あの暴れっぷりが「神話的な次元」でのものであることを示唆している(まあ、ヒューストンが追加撮影したとき、頭のなかからすっかり消えていた可能性もあるけれど)。
6
もしかしたら、最後のシーンはそもそもヒューストンが「このような結末にしたくなった、が、映画としてはうまく繋げられなかったんですけど、あなた方の頭のなかでつながるんならそうしてやってください」くらいな意味での、ちょっと投げやり気味な「妄想パート」ではなかったかとすら、いま考えている(ノイローゼ)。
7
そっか、熊の名前はブルーノなのか。
ほかのユーザさんのレビューで知った。
ブルーノ (クマ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%8E_(%E3%82%AF%E3%83%9E)