ナガエ

方舟にのって~イエスの方舟45年目の真実~のナガエのレビュー・感想・評価

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今年もTBSドキュメンタリー映画祭が始まった。自分のスケジュールに合う限り、興味のある映画を観るつもりだ。

とりあえず最初に観たのは、「イエスの方舟」を扱った本作。イエスの方舟が社会問題化したのは、本作によると1980年。1983年生まれの僕にとっては、リアルタイムでは知らない出来事だ。なんとなく「イエスの方舟」という存在は聞き覚えがあった、ぐらいである。

千石剛賢が主催者である「イエスの方舟」は、「聖書の研究をする」として集まった者たちの集団であり、彼らは現在に至るまで「宗教団体ではない」と言い続けている。1980年に何が起こったかと言えば、「若い女性10名が千石剛賢の元へと家出同然で集い、2年間も逃亡生活を続けた」ことである。このため、「イエスの方舟」は「ハーレム教団」「セックスカルト教団」などと呼ばれ、社会問題化したのである。

千石剛賢は、紆余曲折ありながらも一度警察に出頭、しかし嫌疑不十分で不起訴となった。その際に、彼の元にいた10名の女性はそれぞれの家族の元に返ったのだが、その数年後再び千石剛賢の元に集まった。そしてその後、新たなメンバーも増えながら、今も彼女たちは、福岡県に千石剛賢が建てた教会兼住居で共同生活を行っている。

本作はそんな、「現在のイエスの方舟」を追う物語である。

しかし本作を観て僕は、「この映画で捉えられているのは『イエスの方舟』ではない」と感じた。というのも、結局本作で映し出されているのは、「『理解できないもの』に名前を付けて理解した気になりたい」という「大衆」の欲求だからだ。

というわけでまずは、僕が「宗教的なもの」にどのような感覚を抱いているのかについて説明しておこうと思う。

僕のスタンスは、明快だ。

<誰がどのような宗教・信条を有していてもいい。それを僕に説かないでくれさえすれば>

誰かが何か特定の宗教や宗教的なものに関係しているとして、別にそのこと自体でその人のことを排除するつもりはない(少なくとも、そういう意識を持っているつもりである)。ただ、彼らが信じる「教え」を僕にも押し付けるのであれば、その限りではない。それは、「押し付けてるんじゃない、あなたのためを思って言っているんだ」みたいなエクスキューズをしようが関係ない。とにかく、「僕が望んでいないのに、『教え』を強要するな」ということである。そして、それが満たされているのであれば、他人の信教には興味がない、というのが僕の基本的な立場だ。

一応、当たり前の前提にも触れておくが、オウム真理教のような「あからさまな犯罪行為を行っている集団」や、統一教会のように「法律上はともかく、客観的に観て『個人の人生を崩壊させる』レベルで集金を行っている集団」などは許容できない。それは「宗教的なもの」であるか以前の話で、「そもそも、個人や社会に明確な害を成す組織は許容できないよね」という話である。「『宗教的なもの』だからダメ」なのではなく、「『個人や社会に害を成す存在』だからダメ」という意味だ。

さて、ここで問題になるのは、「僕は一体どういう存在を『宗教的もの』と捉えているのか」ということである。そしてここからはちょっと批判されそうなことを書くので最後まで読んでほしいが、僕は、例えば「オタク」も「宗教的なもの」と考えている。

これは「名前の付け方」の問題であり、本作が「宗教的なもの」なので、それに引き付ける形で「オタク」のこともその概念に取り込んでいるが、別に逆でもいい。「イエスの方舟」のような存在を「オタク的なもの」と名前を付けても別にいいのだ。

僕にとっては結局、「何らかの対象を熱狂的に推している」というのが「宗教的なもの」あるいは「オタク的なもの」に見えており、正直なところ、その両者に大きな差を感じていない。「千石剛賢」を推しているのが「イエスの方舟」であり、この流れで具体的な名前を出すのは適切ではないかもしれないが、「旧ジャニーズ」を推しているのが「ジャニオタ」というわけだ。僕にとっては、そこに差はない。

しかし、「イエスの方舟」と「ジャニオタ」は、世間では明確に区別されていると言っていいだろう。その境界線は一体どこにあるのか。それは、「世間がそれを『受け入れがたい』と感じるかどうか」である。

令和を生きる若者には信じられないだろうが、かつて「オタク」というのが蔑称として機能していた時代がある。よく象徴的に取り上げられるのが宮崎勤だ。連続幼女殺人事件の犯人であり、死刑が執行されている。そして彼の部屋に、マンガやらアニメのテープやらが大量にあったことで、「宮崎勤=オタク=ヤバい奴」みたいな図式が世間に広まったのではないかと思う。

つまり当時はまだ、「『オタク』は『受け入れがたい』存在だった」というわけである。この記事の流れに即してもう少し書けば、「宮崎勤の時代においては、『オタク』は『宗教的なもの』と大差なかった」と言えると思う。

しかしその後、「オタク」は社会で広く受け入れられていく。今ではむしろ、「『推し』がいないの!?」と驚かれるような時代にさえなっていると言えるだろう。そして、時代が「オタク」を受け入れるようになったからこそ、「オタク」は「宗教的もの」というようなマイナスの捉えられ方から変わっていったのだと思う。

さて、「イエスの方舟」は「聖書の研究を行う集団」を自称している。キリスト教が根付いているとは言えない日本においては、やはりこの主張は「奇妙なもの」「受け入れられないもの」として捉えられるだろう。しかし恐らく、欧米ではまったく異なるはずだ。キリスト教が日常にある世界では、「聖書の研究を行う集団」の存在はまったく変なものとは映らないだろう(ただ、「どうしてキリスト教を信じるのじゃダメなのか?」みたいな疑問は抱かれるかもしれないが)。

つまり本作は結局のところ、「『社会』という鏡に『イエスの方舟』はどのように映るのか?」を切り取っている作品であり、それはつまり「われわれ大衆」こそが「見えない被写体」として映画における重要な存在になっているということなのだと思う。

本作には、キャッチコピーとして、「鑑賞後もあなたは、ハーレム教団と呼びますか?」という言葉が添えられている。まさにこの問いかけこそが、本作における最も重要な核であると僕にも感じられた。

「たくさんの若い女性と、年の離れた男性1人が共同生活を行っている」というのは、確かに奇妙な状況であり、普通には理解し得ない。映画の中でも、確か「幼い頃から両親と離れ千石家で育てられ、そのまま千石家の養女となった」と紹介されていた女性が、「理解できない状況なのかわかります」みたいに答えていた場面があった。もちろん、僕にも捉えがたい状況だと感じるし、不思議だなと思う。

ただ僕は、そういう「なんだか分からない状況」を知った時に、「なんだか分からないもの」として留めておくように意識しているつもりだ。「よく分からないことが起こっているんだなぁ」と思って、その状態のまま放置しておくようなイメージだ。僕としては特にそれで困ることはないし、そういう「よく分からないこと」がたくさんある方が面白いなとさえ思っている。

しかし「大衆」はどうもそうはいかないようだ。「よく分からないこと」が起こった時に、「それを、自分にも理解できる既存の概念に落とし込みたい」という欲求を抱くのだと思う。僕にはあまり理解は出来ないが、そうしないと落ち着かないみたいなことなんだろうか。だから、「たくさんの若い女性と、年の離れた男性1人が共同生活を行っている」という状況に対して、「男が女性たちを洗脳し、ハーレム生活を行っている」という図式を嵌め込もうとする。そうして「理解した気」になって、何か満足感が得られるのだろう。

最近観た『彼女はなぜ、猿を逃したのか?』という映画がある。作中では、「動物園から猿を逃した女子高生」が記者から「どうしてそんなことをしたのだ?」と問い詰められる場面が描かれる。女子高生はその問いかけにのらりくらりと芯のない答えを繰り返し、記者はそれでもどうにか「本心」を引き出そうとする。

その時の記者のスタンスが、とても印象的だった。というのも彼は、「彼女には何か明確な理由があって猿を逃したはずだ」という思い込みがあったからだ。それで記者は、「家族との関係に不満があったのか?」「社会に対して何か訴えたいことがあったのか?」と、「そういう動機でも無いと猿を逃したりするはずがないだろう」という前提の元、女子高生に質問を続けるのだ。

そのスタンスはまさに、「イエスの方舟」を見る世間の目と同じと言えるだろう。つまり、「彼らの行動には、『自分たちに理解できる理由』が存在するはずだ」という前提で、社会のすべてを捉えようとするということだ。

メチャクチャ傲慢だな、と思う。どうして「『自分たちに理解できる理由』が存在するはず」などと思い込めるのか、僕には理解が出来ない。さらに凄いのは、「『自分たちに理解できる理由』が存在しないのであれば、それは『狂気』と判断する他ない」というような判断が、当然のようにまかり通っているように感じられることだ。

そんなわけないだろ。僕には本当に、その辺りの感覚が理解できない。

以前、こんな話を何かで読んだことがある。何か犯罪が起こった際、人々はその「動機」を知りたがる。その理由は、「『自分とは違う』と思いたいから」だというのだ。つまり、その「動機」が奇妙なものであればあるほど、「自分とは違う。だから自分はそんな犯罪を起こすはずがない」と安心できるというのである。これもまた、「『自分たちに理解できる理由』以外はすべて狂気」みたいな感覚から生まれる発想ではないかと思う。

今の時代、「多様性」という言葉がよく使われる。しかし、「多様性」という言葉が使われる時に違和感を覚えてしまうことも多い。その理由がやはり、「『理解できるもの』しか受け入れない」というスタンスにあるように感じられる。僕は、本当の意味での「多様性」は、「理解できなくても否定しない」という形でしか実現しないと思っている。しかし、「多様性」の何たるかを理解できていない人ほど、無意識の内に「『理解できる』ものは許容するが、『理解できない』ものは拒絶する」というスタンスを取っているように感じられる。

そしてそういう世の中であれば、当然、「イエスの方舟」は排除されていくというわけだ。

僕は決して、「イエスの方舟」のことが理解できたわけで、共感できたわけでもない。監督の佐井大紀がナレーションで、「『イエスの方舟』のことは分かったつもりになったが、しかし、自分の身近な人間が『イエスの方舟』に入りたいと言ったら、素直に送り出せるかは分からない」と語っていたが、そういう感覚は僕の中にもある。ただ、はっきり言えることは、「自分の人生に関わらないのであれば、拒絶するつもりはまったくない」ということだ。

そして、それぐらいのことで別にいいんじゃないかと思っている。おそらく「イエスの方舟」の人たちにしたって、それを一番に望んでいるのだろうし。

「洗脳」というものが、具体的にどのように定義されているのか僕には分からないが、世の中では、「『理解できない考え・価値観を持っている人』のことを『洗脳されている』と見做す」という振る舞いが、割と当たり前になされているように思う。これもまた、「『理解できないもの』に名前を付けて理解した気になりたい」という欲求から来るものだろう。そして、そんな発想のままでは、いつまで経ってもまともな「多様性」など実現するはずがない。

映画を観ながらそんなことを考えさせられた。僕にはとにかく、「イエスの方舟」の人たちは全然普通の人に見えたし、彼女たちが「法律」や「はっきりとした倫理(僕の感覚では、「法律的に明文化されてはいないが、明らかに犯罪的だろうと感じる状態」ぐらいの意味)」を踏み越えないのであれば、好きに生きたらいいと思う。もちろん日本人は「オウム真理教」の恐怖を未だに抱えているし、「得体の知れない存在」を「予防的に拒絶しておく」ことが安全である、みたいな感覚を有しているように思うので、僕のこのような感覚はなかなか一般的には受け入れられないと思う。

ただ、はっきり言えることは、「『理解できないもの』は排除する」というスタンスが社会を窮屈にしているし、結果的にそれは、「『理解できないもの』は排除する」というスタンスで生きている側にも悪影響を及ぼしているはずだ、ということだ。日本社会にはびこる、この謎の「窮屈感」はみんなで作り出しているものだし、そこから解放されるためにも、正しい意味での「多様性」をみんなで目指すべきだよなぁ、と改めて感じさせられた。

映画の上映後にはトークイベントがあり、監督ともう1人登壇したのだが、それが小説家の小川哲でびっくりした。監督がラジオに出演した際に、初対面だったのにトークイベントへの出演をお願いしたんだそうだ。また、監督は普段TBSのドラマ部で働いていて、今担当しているのが『Eye Love You』なんだそうだ。実に振れ幅の大きな仕事である。
ナガエ

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