イトウモ

ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争のイトウモのレビュー・感想・評価

3.0
シャルル・プリニエ『偽旅券』というのが、スターリン政権化のモスクワでの裁判を題材に据えた、革命活動に従事しながらそれに挫折していく女性たちの群像描く連作短編集(?)らしい。
ここで革命に挫折して戦争に飲み込まれていく女性の影に『アワーミュージック』が重なる。(『フォーエバーモーツアルト』と『愛の世紀』も)

印象としては絵手紙に近い。

『さらば、愛の言葉よ』の両目に別々の映像を流す3D表現からゴダールはどうも欠損による豊かさのようなものへと踏み切ったのではないかと思う。つまり、本来両目で見るはずのものを片目で見るときの貧しさと、一度に二つの場面を両目で見ることの豊かさがここでは表現されたのではないか。

『イメージの本』を見たとき。
ゴダールの暗転が、サイレント映画の字幕によく似ていると思った。本来なら無音の中でセリフの字幕を見て声を想像させるシーンであるところ、有声映画の無言の字幕シーンでゴダールが観客になにかを想像させようとしているような気がした。少なくともそれが、映画にあいた隙間に観客が入り込む余地のようなものにはなっていた。

『ゴダールソシアリスム』の拙い映像の羅列はソシアリスムの名の通りに、ソーシャルネットワーク的な素人映像の奔流に見えた。『パッション』のような彫刻的に美しい映像を撮ることができたはずのゴダールにおけるこの転回はちょっとした現代社会への皮肉のようにも見えたが。こうしてあとにできた映画を見た時には、どうも「欠損による豊かさ」、「観客の想像力への期待」のようなものだった気がしてくる。
ソシアリスムとはもちろん社会主義なのだろうけれど、ゴダールの政治に対する革命への期待がこうして「ソーシャルメディアのソシアリスム」として続いているのかもしれない。これは逆に10年ばかり時代遅れのネット社会への期待にも思えるけれど、

ウクライナもイスラエルも出して現代でゴダールがやっていることは全体主義への抵抗としての革命運動、、としてのささやかな絵手紙だった気がする。


無音・ずたずたにされた音楽・静止画。
というこの構成に展示作品のようなもの。鑑賞者の干渉する余地。(絵)手紙のようにコミュニケーションされて初めて成り立つ情報のような半端さを感じた