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ナショナル・シアター・ライブ 2024 「ワーニャ」のmegurosのネタバレレビュー・内容・結末

4.3

このレビューはネタバレを含みます

元の戯曲を読み、1994年のルイ・マル版を観て、「チェーホフ 七分の絶望と三分の希望」も読んだ上で鑑賞。アンドリュー・スコットによる一人芝居。

持ち物(テニスボール、サングラス、ネックレス、布巾等)や、それを使った仕草、基本の持ち場、落語的な顔の向き、声色を駆使して1人で8役を演じ分け、それが成立しているのだから驚くべきことだ。ただ、それよりも自分がハッとさせられたのは、この戯曲に対してはっきりとした疑問の形としては感じていなかった微かな違和感の数々について気づいたことだった。

まず、真っ先に触れたいのはヘレナ(エレーナ)と、彼女に心を寄せるアイヴァン(ワーニャ)、そしてマイケル(アーストロフ)について。

ルイ・マル版においてアーストロフはエレーナの心を奪うイケおじで、自然環境保護意識も高い進歩的な人間を体現しているかのように見えた。彼はワーニャにもソーニャにも「誰も好きにならない」と語りながらエレーナに心奪われている(この部分、アーストロフは嘘をついていたのか?と微かな違和感があった)。一方でワーニャはエレーナに無理矢理にもキスを求めるキモおじ。エレーナはそれをかなり許してもおり、ファム・ファタルとして配置されていた。

しかし本作ではどうか。マイケルは日々の仕事に忙殺され、心を失っている存在(酔い方も断然酷い)。彼が保護する自然は彼の逃避場所でしかなく、自然破壊は逃避場所が失われていく感覚と等しい。ヘレナへの感情ですら日常からの一瞬の逃避でしかなかったのだろう。

アイヴァンにおいては、妹の喪失に強くスポットが当てられており、もしかしたら兄妹以上の関係だったのですらないか。ヘレナへの感情は所詮その埋め合わせでしかない。若き日のヘレナに対する態度にしても、25年にも及ぶ土地の管理の話にしても、妹の喪失をコアに過去への後悔が全てだ。

※妹の存在がピアノとして象徴的に表現されていたのも見事。自動ピアノは妹の魂のようにも思われた。ピアノが妹であれば、ヘレナはピアノを弾くことを許されるわけはないと合点もいく。兄妹の美しい記憶を思い返す曲は「Heart and Soul」。近親相姦的にも読めなくない。

そしてヘレナ。自分は”添え物でしかない”と悩みを語ってはいるが、それよりも間違った男と結婚してしまったという自らの過去の決断を後悔している人物で、後悔をしながらもそれでも行動が起こせない(その点においてワーニャと響き合う)。

※ルイ・マル版ではジュリアン・ムーアが演じていたが、彼女だと強く美しく賢過ぎたのではないか。もう少し箱入り感というか、奥手なイメージが今回の解釈に近い。

ルイ・マル版では撹乱要素でしかなかった恋愛要素が後退することで、働くことは決して福音ではなく、むしろ心を失うことだが、心を失いでもしなければ現実に耐えていけないという悲痛な感情がラストのソーニャのセリフを通じて生きてくるのだ。

※モーリーン(マリーナ)は決められたリズムで穏やかに暮らしたい人で、それも苦しい現実に対する態度の1つ。リアム aka クレーター(テレーギン aka ワッフル)は別れた妻を経済的に支援する男で、現実にそもそも向き合っていない/問題に気づいてすらいない男。

アレクサンダーの職業を大学教授から映画監督に変更して、彼らがアイヴァンを通報しなかった理由(映画のアイディアになった)に肉付けしたのも上手い。

マイケルとヘレナの決定的瞬間を目撃するアイヴァンの場面にしても、ルイ・マル版のような単なるキス目撃ではなく、現代の感覚へのアップデート&一人芝居の特性を活かす演出として、洋服を脱いでまさぐり合いに遭遇となっていてつくづく恐れ入った。
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