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道のmegurosのネタバレレビュー・内容・結末

(1954年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

イタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニ監督作。ヴェネツィア銀獅子、1957年のアカデミー賞最優秀外国語映画賞受賞作。淀川長治によると戦後日本に最初に入ってきたイタリア映画とのこと。音楽はニーノ・ロータ。製作プロデュースはディノ・デ・ラウレンティス。

旅芸人ザンパノと巡業していた姉ローザが死んでしまい、代わりに妹であるジェルソミーナ(ジャスミンの意)を売り飛ばす母親。こうした人身売買は貧しい漁村ではよくあったことなのだろうか。

初日からザンパノに手籠にされ、訓練では木の棒で叩かれるジェルソミーナ。日常的なモラハラを見ていると、前金なのだしさっさと逃げろと思うが(一度は逃げるが)、逃げたとて結局行くところがない。自身を”何の役にも立たない女”だと言うように、この世で何をすれば良いのか皆目分からないのだ。親にも愛されてこなかっただろうジェルソミーナは、いかにしてモラハラ/DV男の精神的支配から逃がれることができるのか。

サーカスで出会った綱渡師で道化のイル・マット(彼はジェルソミーナに恋心を抱いている)にはシンプルに「俺についてこい」と言って欲しかったが、日和ってか、彼女の自尊心を奮い立たせるためだったのか、「お前以外に誰が奴のそばにいれる?小石だって何かの役に立っている」と、毒にも薬にもならない。

示唆的だったのがガス欠で一泊した僧院のエピソード。僧院では2年に一度引っ越しをするとのことで、「同じところに長くいると住む土地に愛着が湧いて移れなくなる。1番大切な神様を忘れる危険がある」と修道女は語る。正にザンパノの元を離れられないジェルソミーナのことではないか。

僧院でザンパノはジェルソミーナに金品の盗みを強要。その後、イル・マットの殺害、その隠蔽までを行い、共犯関係にされたジェルソミーナはみるみる狂っていく。快活なジュリエッタ・マシーナだからこそ陰鬱になり過ぎず見ていられたが、ここにきて彼女の陽気さまで決定的に失われ、殊更に悲しい。

ラストはジェルソミーナを捨てた後年のザンパノのエピソード。ザンパノは旅芸人だが、胸筋で胸に巻かれた鎖を断ち切るという芸しか持っていない。映画冒頭から何が面白いのかさっぱり分からなかったのだが、歳をとり、肉体も衰え、それをいつまで続けられるかも分からなくなってきた。酒場で飲んでは叩き出され、旅芸人仲間とはケンカして、気づけば自分の生きる世界もどんどん狭まっている。恐らくはザンパノも愛されてこなかったのだろう。たどり着いたのは誰もいない浜辺。そこはかつてジェルソミーナが短い生涯を終える前に最後に暮らした土地だが、そこでザンパノは自らの孤独な境遇、失ったジェルソミーナの存在に初めて気づく。ザンパノを演じたアンソニー・クインの演技は素晴らしいの一言だった。

50年代の映画にも関わらずロケ撮影が大半。当時の大型のカメラを運んでの撮影はさぞかし骨の折れる仕事だっただろう。
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