このレビューはネタバレを含みます
東北という土地について。
以前、文学周りのひとたちと東北について話していたことがあり、そこでは宮沢賢治が絶対的な存在として確かにあった。「米津玄師って東北っぽくてずるい」というようなわけわからない話があって面白かったが、ともかく東北は不思議な土地であるわけだ。歴史的に不遇な土地でもあり、ある部分の想像力の土地。藤本タツキの原作は、フィクションがフィクションであることを強く強調しているが、それが現実と接地する足がかりとして東北芸術工科大学がある。本作でもそこは再現されていて、学校が協力もしているようだった。
同時に、言葉について。藤野(そしてその他大勢)と京本の大きな差が山形弁の強さなのだが、京本以外に方言を感じなさすぎてしまう。だがここはネイティブ、というか実際にこの年代で住んでいるかどうかでしかわからないので塩梅は難しいなと思う。キャラ付けとしてわかりやすく使われている感じ、というのは拭えなかったが。
アニメーションは全編を通して丁寧に作られており、たいへん見応えがあった。絵が動く快楽というものを強く感じ、それは作中の4コマが「技巧的な」映像になっているのも含めてそうだろう。これは藤本タツキという作家が、シネマを強く意識しつつ、それでいてマンガの特性、紙をめくる視線の動きなどを意識して設計するメディア・スペシフィティを実践していることの捉え返しだろう。「映像でやること」が強く念頭に置かれている。ただそこの見事さ、もしくはあざとさを通して、監督自身がアニメーションの力、自作の力を信じ切っていないのではと疑念が残る。これは既に指摘が出ているが、あまりに音楽がエモーショナルにすぎる。泣かせよう、盛り上げよう、そして泣かせよう、そういうのが音楽に期待されすぎている。新海誠と音楽家の共犯関係がすぐに思い出されるが、それらが相乗でエモーショナルを組み上げるのに対し、今作はアニメーションの良さと音楽のあざとさが食い合わせの悪さを起こしている。宮崎駿の映画も久石譲がもっと抑制的ならなあと思うときがあるが(その点、『君たちはどう生きるか』は見事だった)、宮崎アニメはそこで異様な感動を与える威力を誇っているわけだが……。
現実との接地点、については京アニ事件が本作とは切っても切り離せなく、そこが無視されて「青春譚」として扱われていることにも強く違和感を感じるが、映像という、時間そのものをメディアが自律的に期待する空間においては、あの時間のコマの不気味なテンポは難しかったのかもしれない。構成上、よくできたアニメ映画にするために必要な処置だったのかもしれない。
アニメーションとしてかなりよくできていて、そしてそこだけでも観る価値がある、とは思っている。確かに。