ヨーク

ルックバックのヨークのネタバレレビュー・内容・結末

ルックバック(2024年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

原作は既読なのだが、本作『ルックバック』の感想としては率直に言うと原作漫画を読んだときとほぼ変わらないもので「エモいってのは分かるけど別にお話としてはそんなに面白くはないなぁ」というものだった。この映画版は原作漫画をほとんどそのままといってもいい形でアニメーションに落とし込んでいて特にエピソードが追加されたりしているわけでもないので原作漫画を読んだときと全く同じ感想だというのもそれはそれで当たり前のことなのかもしれない。
面倒くさいからネタバレ配慮せずにあらすじを書くが、まぁどうせみんな知ってるからいいでしょ。コンビで漫画描いてた女の子がコンビ解消して一人は商業デビューしてもう一人は通り魔に殺されるというお話です。
いやマジで物語としてはたったそれだけだから別に面白いとかはないんですよ。敵(ライバル漫画家とかでも)と戦ったりはしないし、殺人鬼は出てくるけど別にそいつを捕まえる話でもないし、かといってどこにでもいる普通の人が殺人鬼へと変貌していく過程を描いてるわけでもないし、戦争も起こらないし怪獣も宇宙人もお化け(…はちょっと解釈次第でいけるかも)も出てこないし大恋愛が描かれるわけでもない。上で漫画家コンビの片方がデビューすると書いたがそこがサクセスストーリーとして展開されるわけでもないのだ。それはまぁ大して面白いお話でもないよなって感じである。
もっとも、本作は通常の漫画の単行本一冊分にも満たない程度(確か150ページほどだったと思う)の短編で、映画も既に書いたようにそれを忠実に映像化したものだから58分しか尺のない中編作品なのである。この58分という尺を見たときはガッカリした。きっと漫画の内容をそのまんまなぞるだけで、原作漫画では描き切れなかった部分が補強されたりはしないんだろうなと思ったからだ。んで、この感想文の最初に書いたようにその直感は的中して原作を最初に読んだときとさして変わらない印象しか受けなかった映画だったのである。これはガッカリでしたね。まぁ世の中には原作モノ(特に漫画)を映像化する際に上からなぞったように全く同じものにするべき、と考える人が結構な数いるようでそれはそれで別に個人の好みとして尊重すべきだとは思うが、俺は原作から変えたり原作にはなかった要素を入れることによってより面白い作品になるのならガンガンやるべき派の人間なんですよね。それは俺の個人の意見として、です。んでこの『ルックバック』という“漫画”作品は明らかに描写が足りていなくていくつかの要素を追加した方がより完成度の高い物語になるという漫画だと思っていたんですよ。でもこの『ルックバック』とう“映画”作品はそれをしなかった。だから良い、という人は当然いるだろうが俺にとってはガッカリでしたね。
では具体的にどういうシーンを追加すればより良い作品になったのだろうかといえば、それは本作の主役である藤野と京本の外部である。この『ルックバック』という作品は徹頭徹尾藤野と京本の関係性に絞って描かれた物語で、その外部というものは直接的には描写されないのである。家族や友人や出版社の担当編集者や通り魔犯への描写というのは皆無と言ってもいいほど無い。例外的に藤野が家族と団らんを過ごすシーンは僅かにあるが、それだって京本の存在感(彼女によって一時的に筆を折ったということ)を強調するためのシーンなのである。個人的にそこが本作の最も重大な欠点であり弱点でもあると思ったが、しかしこの作品が凄いのはそれがただの弱点ではなく強みにもなっているということである。どういうことかというと、藤野と京本の二人の世界以外を描かないということによってその閉鎖的な関係性の中でのエモさが跳ね上がっているということだ。個人的にはそんなもんは幼稚かつ近視眼的な共感が成す狭い世界内での出来事のみに終始してその先に何があるのかを描いていないように思えたのである。もちろん、だからこそ二人の青春は濃密に描かれていて、それ故に結末がエモいということになるのだが、それはそのまんまの意味でエモさしかない物語でもあるのだ。
俺としては本作を映画化するなら京本が美術の道を志すきっかけとなった出来事を描いてほしかった。一口に画業で生計を立てるというと現代日本の多くの人はアカデミックな芸術家としての画家か漫画家かイラストレーターあたりをまず想像するのではないだろうか。本作ではその中でも漫画家が取り上げられているわけだが、そこから背景を担当していた京本が漫画ではない(その外部の)美術の分野へと興味を示したのならばその先にある藤野とは決して交わらない世界というのを示すべきだったと思うんですよね。その方が物語としての強度はより強くなったと思う。もしくはこれはかなり原作漫画の主テーマから離れてしまうが通り魔犯の男がなぜあのような犯行に至ったのかを具体的に描くことによっても藤野と京本の二人の世界の外部にあるものを示唆することはできたと思う。俺としては不完全だと感じた漫画版『ルックバック』を映画化するならそれくらいの補強は欲しかった。もちろん尺の問題があるので映画版でシーンを追加するかどうかは話し合われたのではないかと思う。だが、きっとそれは藤野と京本の世界の強固さを壊してしまい、エモさを損なうからという理由で却下されたのではないだろうか。まぁそこら辺のことは俺の想像でしかないのだが、結果としては個人的にわりとガッカリめの映画化だったということですね。
しかしまぁガッカリ感はあったとはいえトータルではそう悪い映画ではなかったとは思いますよ。何より俺は押山清高のアニメが好きなので基本的には画が動いているだけで楽しかったというところはある。雨の中のスキップは誰が描いたんだろうな。監督かな。あれ凄い作画だったね。歌こそなかったけどあれはミュージカルの本質に近いでしょう。周りに田んぼしかないクソ田舎で雨が降り出した灰色の空というロケーションだけど、確かに藤野の心が踊っているということがその画の動きだけで分かっちゃうもんね。あれはいいシーンだった。まぁ全体的に劇伴は狙いすぎてる(狙い通りの発注に応じたharuka nakamuraは凄いと思うが)なと思ったが、作画は全編本当にいい動きしてましたよ。
あと最後にちょっとしたおまけ程度に書いておくが、原作漫画が発表された頃に『ルックバック』というタイトルからオアシスの『Don’t look back in anger』がネタ元じゃないかと言われてるのを何度か目にしていて、それはほぼ間違いなくあると思うんだけどそれ以上に『Don’t look back in anger』のネタ元にもなっているデヴィッド・ボウイの『Look Back in Anger』があるだろうということは記しておく。これは確実に藤本タツキは意図していると思われ、オアシスとボウイによる二曲の関係性は京本と藤野にも対応していると思う。いやオアシスはともかくボウイはそうでもなくない? と思われる方もいるかもしれないが、本作で例の事件が起こったのは2016年の1月10日で、それはデヴィッド・ボウイの没日である。日付と年数まで一致しているのでこれは流石に偶然とは言い難いだろう。
だが、人は何にでもなれる、という越境性でその世界の広さを示したボウイを参考にするのであれば上記したように藤野と京本の二人だけの世界以外の拡がりを作品として示してほしかった。そこは本当に残念である。
まぁしかし何にせよ改めて押山清高の実力は思い知ったので、押山清高にはもっと描かせよ、撮らせよというのが結論になりますね。『フリップフラッパーズ』ほど無邪気なやつはもう無理だとしてもとりあえずなんかオリジナルをやってほしいです。
中村健治と松本理恵と山田尚子と押山清高には本当に期待しているからな!
ヨーク

ヨーク