晴れない空の降らない雨

ルックバックの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

ルックバック(2024年製作の映画)
3.4
注意:このレビューは白酒舐め舐めでいつも以上に放言です。

■マンガとアニメ
ぶっちゃけアニメが原作にマウントとれるのは、小説であれば描写スカスカのラノベやウェブ小説、マンガであれば同様に四コマくらいであろうと思っている(『らきすた』以降の京アニの四コマ原作アニメは、「自分たちが好き放題やれること」を原作選びの基準にしたとしか思えない。その行き着く先がラノベレーベルの立ち上げだったのだろうよ)。

にもかかわらず、マンガにケバい色と甲高い声、そして(程々に)運動が付け加わっただけで、世間じゃ大概アニメのほうが偉くなってしまう。まぁ無料だし、仕方ないけど、気に入らない(それに、最高につまらない話だけどヒトって結局「人間」が好きなんだよねえ)。

■マンガの時間
マンガには色がない、音(声)がない、運動がない。だから読み手は自由であり、だからマンガは優れている。ところで音と運動の存在条件である「時間」に、マンガとアニメの最も重要な差異、少なくともその1つが存することはきっと合意が取れるだろう。

マンガに音や運動がないからといって、「マンガには時間がない」と考えるのは間違いである。むしろマンガの時間は読み手において伸縮自在である(この性質は小説でも難しいのでは?)。

読み手において伸縮自在といっても、マンガ家に介入する手立てないわけではない。これの原作で、藤野が絵の練習を続けるダイジェストは見開きを贅沢に使った、台詞がない4つのコマで描かれる。これによって年月を重み付けしているし、作品に固有のリズムが生まれている。が、それでも時間の重さは読み手において最終決定される。

これは何をどうやってもアニメでは表現できない。代わりにアニメにできることは、色をつけ、声を当て、キャラやカメラを動かし、ついでにクサいBGMを流すことだ。これは権利というより半ば義務だ。アニメでは、どんな台詞もそれが台詞である以上、言われなくてはならない。

■原作と本作
本作の序盤には、確かにアニメーションの快楽がある。俯瞰ショットはカメラワーク付きとなり、静止画は運動となる。けれども、こうしたアニメーションの質という点に関しても京本と出会った日の帰り道のシーンが頂点で、以降は次第に力尽きていったように思える。最後のほうは動かすことすら放棄している。

だから、原作(そもそもこれが傑作だとも思わないが)との比較抜きにしても本作がかくも絶賛される理由is何って感じだが、このマンガに固有の問題は、「原作者がマンガという媒体に強く意識的である」ことにある。その意識は、実際に彼の作品を読めば誰でも気づくほどに特徴的なスタイルとなって現れている。現代マンガの技法が基本的に映画(映像)に負うものであるのは確かだが、やはりマンガはマンガである。

本作で「背中」は「マンガを描く行為」を表している。それは本質的に孤独であり(成人後の描写にあるように現代ではアシスタントと一同に会す必要もない)、世の中に背を向ける行為である。

本作では見開きを贅沢に使って、「同じ構図のコマ」を並べる。それをさらに繰り返している。そのことにより時間経過をダイジェストしつつ、「マンガを描く」という主題を強調している。一歩間違えれば手抜きと受け取られかねないこの演出は、短編だから許されているのだろう。

これをアニメにするとき、ここまでストイックではいられない。マンガのアニメへの翻訳とは結局のところ時間の翻訳である。コマの出来事とコマ間の出来事を、時計で計られる時間に置き直す。そしてこのときにノイズが入る。つまり、色、音、運動。

もうちょっとちゃんと比較を掘り下げたいけど、その能力が自分にない。

ところで、これの原作が発表当時話題になったのは①時事性に人々が反応したからってのと、②シネフィルが喜びそうなテマティスム的演出がそれなりに巧くキマッていて文芸っぽい短編としてキレイにまとまっているからで(自分も好きな方ではある)、別に傑作というほどのモンではないと思っている。
(ところでSNSとかで京アニ放火事件を「名前を言ってはいけないあの事件」みたいに婉曲に扱う人が結構多いの何で?)