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ぼくのお日さまのumisodachiのレビュー・感想・評価

ぼくのお日さま(2024年製作の映画)
4.5



『僕はイエス様が嫌い』の奥山大史監督。

吃音の少年タクヤは、雪深くなる時期はホッケーを習っていた(雪が解けると野球)。気弱なタクヤはいつもキーパーをやらされていたが、あるとき同じスケートリンクでフィギュアスケートを習っているサクラの演技を目にし、興味を持つ。サクラは元フィギュアスケーターだった荒川から特別にレッスンを受けていたのだ。タクヤがフィギュアに興味を持っていることに気づいた荒川は、無償でスケーティングを教え始める。そして、サクラとタクヤでアイスダンスのペアを組むことを提案し……。

窓からこぼれる柔らかい光と共に紡がれていく、優しくて切ないドラマ。それぞれの淡い想いが交錯し、溶け合ったかのように見えて、儚くほどけていく。そんなひと冬の物語だった。

『リトルダンサー』ととてもよく似た設定で始まる本作なのだが(おそらく意識的だろう)、『リトルダンサー』が経済的ハードルや他者の偏見を障壁にしていたのに対し、本作で障壁となるのは内なる偏見や自身を揺さぶる感情の動き。

スマホが一切登場しない、雑誌のバックナンバーでしか過去の荒川の活躍を確認できない、カセットテープで音楽を聴く、などの描写からすると、おそらく時代は80年代とか90年代とかなのだろう。そうなると、恋愛の多様性については今とは世間の価値観が違うし、トラブルや誤解が生じても連絡を簡単に取ることはできないわけで。ストーリーに説得力を与える設定も上手い。

3人の間の壁が取り払われ、本当に楽しそうに凍った池で滑っているシーンを観ながら、私は不安で不安でたまらなかった。それほどこの映画は美しく尊かったから。これが永遠に続けばいいと願ったが、映画である以上は必ず起承転結の「転」が待っているのは間違いない。それがこんなことじゃなければいいな、あんなことじゃなければいいなと祈りながら、美しい光に満ち溢れたスクリーンの中の幸福を眺めていた。(結果的に、予想していなかった「転」が待っていた)

映画は、映像を通して語るメディアだ。だから、映像のパワーは計り知れない。本作の主役は間違いなく映像そのものであり、前編に渡って貫かれる光の演出は芸術そのもの。そしてその美しさは確かにそこに存在している瞬間の記録であり、それは同時にサクラとタクヤの中にも確かにこの冬の煌めきが刻まれたということを意味してもいる。

子どもは揺れ動くものであり、成長する上では傷つくことも傷つけることもある。傷つけてしまったという悔恨も、傷ついたという痛みも引き受けながら、人は大人になっていく。彼らの明るい未来を暗示する形で映画は幕を閉じるわけだが、終始ドビュッシー『月の光』に包まれていた本作の最後に、パッと明るい日が差したように感じたラストシーンだった。
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