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ぼくのお日さまのarchのレビュー・感想・評価

ぼくのお日さま(2024年製作の映画)
2.5
スタンダードサイズ。全体的に輝度が高く、輪郭が曖昧で、雪と光彩が見分けつかなくなるようなフィルムライクな映像(フィルムかを断言する自信ない)で描かれる、グラウンドが使えない束の間の冬の物語。

一夏の物語、というのは物語の定型としてよく見かけるが実は一冬の物語ってそんなに思いつかない。(春に向けての物語という意味なら思いつきそうだけど)

この作品にはちゃんと"時間"が流れていて、その時間の不可逆性をちゃんと残酷なものとして扱えていてそこは好印象だった。

ただ、本作の《綺麗》だけど《危うい》という作劇は腑に落ちない。
なぜなら《危うさ》は結局《綺麗》な雰囲気で隠匿されたままで終わるからだ。

画面には美しい映像感と共にドラマが展開されていく。野球やホッケーといったスポーツに向かない吃音症持ちの内気な少年タクヤが、アイススケートにハマっていく。そこには初期衝動故に発露されるピュアさがあって《綺麗》で、それに感化されて元プロフィギュアスケーターの荒川が指導していく。
講師と生徒の《綺麗》な師弟関係、されどどこか《危うさ》はある。ああいった習い事は「ビジネス」だから、親も安心して預けているというはずだ。しかし荒川は無償で、親の預かり知らぬところで教え出す。(後日親は知ることにはなるが)親ではない大人と子供の関係は、非常に繊細なもので、それは10割大人側が気をつけなければいけないことであるはずだ。
荒川はどうやらプロを辞めたことの鬱憤として、代替行為としてタクヤにスケートを教えているような、そんな若干「危うさ」が感じる。
そこにシングルをやっていたはずのさくらを半ば強引に引き入れてアイスダンスのコンビで、試験を受けさせようとする。一見してさくらは受動的ながらも受け入れて、タクヤとさくらは交流を重ねて仲良くなり、試験に向けて真面目に取り組んでいくように見えるが…。
さくらは元々親(大人)の言われるがままに荒川に教えて貰っていた子である。どこか親からのプレッシャーを受け入れて、息苦しそうな印象を受ける中で荒川の強引さは「危うく」を感じる。どこか荒川の教え子への健診よりも、鬱憤のはけ口に傾倒しているような、そんな「危うさ」も感じられてくる。
実際2人がその練習の場(ある種の強制力の働く場)以外で、会話している場面はなく、映像程に「美しい」ものではない。
そのギャップが本作に深みをもたらしているというのは分かる。ただそれはその関係性が均衡が崩れた後に、そのギャップに向き合うならばだし、その《危うさ》は直接的な崩壊のキッカケになっていないところに破綻を感じる。

誰もが何が原因でその均衡が崩れたのかに向き合うことなく、教え子のタクヤやさくらの(たとえ誤解だとしても)感じた"傷"を誰もがケアせず、《綺麗》の前に時と共に風化させようとする。ノスタルジックに不可逆性の中に溶け込ませてしまえば、それは確かに《綺麗》だ。どうしようもないことだと距離を取ればそうだろう。荒川はさくらに半ば強引にアイスダンスをやらせようとしたことに自覚的だったのだろうか。それが崩壊の原因じゃないし、なんなら荒川は被害者、さくらは勘違いだとしても傷つける側という構図であるが故に、その《危うさ》は霧散してしまっている。

そうやってあったはずの《危うさ》に向き合うことをせずに、無力感に酔って、少々低俗に言うが「エモかった時間」みたいに消費していいんだろうか。

最後に荒川とタクヤがキャッチボールするシーンは確かに良い。デカくてサイズの合わない学生服と"今"ピッタリのスケート靴の対比が効いていて、成長の中でタクヤはいずれスケート靴が履けなくなる=タクヤにとってアイスダンスは、時間と共に《過去》のことになるんだという示唆になっていて、《時間》を上手く捉えられていると感じた。

ただ、その「無力感」だけを募らせる終わり感に違和感は拭えない。多分それは"綺麗"なものの一部として描かれるマイノリティー描写のせいでもあるだろう。社会的な弱者や吃音症でひ弱で中性的な男の子=綺麗の公式ばかりで、さくらの中にある誤解や偏見を放置してしまうことをやらない本作は結局、いくら儚くて弱くて可哀想だとしても、そういった状況を作り出している社会と共犯関係にあるように見えてしまうんじゃないか。

最後の2人の対面に、向き合う姿に含まれるにはあまりに本作はあらゆることをおざなりに後回しにしているんじゃないだろうか。
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