ニューランド

放蕩娘のニューランドのレビュー・感想・評価

放蕩娘(1981年製作の映画)
4.5
✔『放蕩娘』(4.5p) 及び『あばずれ女』(3.5p)▶️▶️

 前にも書いたが、ドワイヨンに最も傾倒していたのは40年位前か。要は『ラ·ピラート』の華麗さの前と言う事だが、この作がその期の最後の作か。女とか娘とか続いたので勝手に3部作と捉えてて、真ん中の作は少しだけ落ちるが初作と終作には、ほとほと感心した。只、当時は16ミリ英語スーパーという形の上映だったので、英語を殆ど解さない私は、特に本作の理解は覚束なく、賛美は『泣き~』に偏った面があるけれど、今回初めて日本語スーパー付きで観ると、その荒涼としたり柔らかく包んだりの自然や、窓枠やドアや壁·ベッドが仕切る室内で、近親相姦に至るのも構わぬテーマ·生きてく課題を、関係性よりも個々の精神性の突き詰めの頂上接触の火花から持ってくる世界は、ベルイマンの神の不在3部作、特にビジュアル的にも『鏡の中~』を想起もさせ(『ペルソナ』も)、その日常性から繋がる高邁な緊張感に驚いた。ガタイのいいピコリは後に部分噴火もするが基本身をすぼめて存在を抑えに抑え、この世の存在を越えた美貌の方につい惹きつけられるバーキンも、まるで修道尼の様に、心の奥の闇の引きずり出しと解決に、次から次へと熱し手を緩めない。頭突きや叩きあいから、身体を床に重ねても、まるで肉体の存在感が後ろに廻り、只精神の果てない火花がショートを止めない様の限界なさに驚き、別世界に連れて行かれる。しかし、彼らが特権的な主役として、周りにかしずかれているかと言うと逆で、普通の常識を持ち地と場に根を張った人たちが寧ろ慌てず在り続け、それは一般の真の力を及ぼし、彼らを心配し救おうとする人たちで、本来メインを張るべきの存在だ。しかし、彼らが深入りや関与を諦める病巣·病根が存在し、繋がり敷かれている。そこを担ってるのが、父娘ということに、たじろぎ確信を持って退室してゆく。病いの世界だが、惹かれもし、眺めるしか出来ずも、最も緊張と昇華が強いられる、顕微鏡で解るような病態解析が、限りなく徳あり美しい。ドラマを越えた世界が遺る。
 1人篭り離れて暮らす、精神を病んだ下の娘、心配した両親(仏人と英人)が訪ねて来るが、父には愛人がいて近くにいることや·上の娘の出産間近に併せ寄手もらうことで母が離れる、父の愛人をうちに招くが大人の彼女も離れる、娘の夫もやってくるが現実的な力はない、父と娘だけが残り、互いへの執着を露わにし、突き詰めてゆく。デクパージュもショットが曖昧に癒着した茫洋としたところが、進歩した中にも残ってた前作に較べ、全ては明晰でショット内で縁をはみ出ず、煮詰められ、対峙高揚·新発見され、狂気の行為の現れも混乱ではなく決着点に近づいてゆく。室内劇·演劇的模範形でありながら、自然と生が放たれ·呼吸し、袋小路には嵌らず常に恐ろしい迄に歩を進めてゆく。窓枠越しのアップや視界の野外L俯瞰、Fのトゥショットや数人係わらせ、切返しアップ表情、ベッドとそこの動きや揺れるドアの裏表の2人を捉え尽くした図や角度変、動きに併せた急なパンの力や退き全から少しずつ寄っててるカメラ。サイズが違っても、変えても、顔は完全に拮抗·バランスを強め拡げる。図や移動のその他も、埋めるのではなく、対等に存し、張りあい独自の均衡を張り、新しい分野へ飛ぶのに崩れを気にしない。夢や幻視の世界やシーンも混入し、惑わす。内容の激しさ·(内的)暴力性は、背反する美と可能性に届かんと輝く。
 「周りの家族や愛する者を次々排除して2人だけに」「パパは、私に対して受身であり続けだから乱れぬも、自身も恋人とその喪失には同じ」「病いとも言える抑ウツを越えなければ進まない」「秘密はまだまだある。恒にスタートであり、ゴールがパパであり続けた。子供の時から、自分を最も可愛いと思い込んでた。が、パパだけは、姉の方を私より愛してると思ってた」「区別はない」「が、いつからかパパが愛してるは、自分だと確信してきた。誇らしかった。パパから逃れる為に、ママの故国イギリスに渡るも結局フランスへ戻ってきた。愛し尽くすことで、逆に打ちのめそうとししている。パパは私を産んだ。神からボスへも堕ち·進む」「何故、今の新しい関係を語らず、子供の時にすべての起点を置く? 大人にならない、自身の子供がいない、持とうとしない。そこへ出ることも」「妊娠した?」激しさ·透明さ·無力さ·汎ゆる拮抗と溶込み、映画·演劇·現実·肉親(産みと分身)、何にも属し切れぬ。もしかしたらこの広汎な境を意識することでの、拘りの変貌·昇華が、個人的にはあまり入れなかった『ラ·ピラート』を用意することとなったとしても、痛さと疵と美が繋がった質感は得難い一点に届いてる。
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 その前作『あばずれ女』はまさに映画の神に叶う名編か。個人的には名画と呼ばれる映画には点数を献上しないので、こんなものだが、名作中の名作『禁じられた遊び』を彷彿とさせる、剥き出しの前後作の品の無さを、それを持ってておかしくない11、17歳の社会からはみ出て偏った存在が、寧ろ犯罪の共犯性を、秘密の共有という、手垢のつかない結束の確認に変えている、剥き出しでない、無理のない品性がある。知的障害を相手にされぬ自分を、あしらったのかも分からないが·好意や関心を示してくれたとし·その唯一の存在になった少女を、誘拐·監禁の2週間、片田舎の事件。しかし、それらは少女の同調·時にリードなくしては、成立·持続してゆかない、真逆の内実と得難い秘密性。両親に隠しての監禁場所の納屋の自室らしきスペースの囲み付けや場所移動。拘束縛りも向うものへの要件なだけで、実効性はなく、扉·鍵·ライフルらも、表裏一体の協力での成立が視覚でも表される。互いの不完全に歪んだ家庭の事も語り合い、それらを含め、また、期限を承知の関係で、不完全さを得意なバランス付けてく事が、貴重唯一の世界への改めて確信となってゆく。
 カットの組立も、長編処女作の前作に較べ、クッションや組立の層を踏んで、映画になっている。あくまで剥き出しでない素朴さを表しつつ、2人の運動や位置の対称反復、退きの角度変も僅かな角度付の対称を現し、寄ったサイズと元のサイズの各者の対応も内から呼応の力とバランスとキレを持っている。それらはシャープなエッヂ性持たない望遠め多く、溶け合う感覚も併せてある。退きのどんでん·裏表もしっくり表されるが、強引なパンで2者が一つに合さるのも普通に。柔らかく素朴に見えて、サイズ·角度は内から確かな選択·決定がなされる。事件?後、発覚しての、現場検証·行動再現も、遊戯性と共犯性が、観客との間で確かめられる。
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