本作は、まるでフランス版『イニシェリン島の精霊』のような趣を持ち、登場人物の性格や、それを取り巻く環境の雰囲気においても多くの類似点が見受けられる。
主人公ジェレミーは、特に目的を持たず、町や森をあてもなく彷徨いながら時間の経過をやり過ごす日々を送っている。気が向けば友人ワルターの家を訪ね、食前酒(パスティス)を飲みつつ、他愛のない会話を交わす。夜になると、マルティーヌの家に戻り、子供部屋のベッドで眠る。そうした一見堕落した生活が淡々と描かれている。
彼の行動は誰かに明確な迷惑をかけているわけではなく、仮に「被害者」がいるとすれば、長期にわたって彼を受け入れているマルティーヌかもしれない。しかし、彼女自身がジェレミーの滞在を許可しており、不快感を示す描写もない。一方で、ジェレミーに対して強い不満を抱いている人物がひとり存在する。それが、マルティーヌの一人息子ヴァンサンである。彼は実家に居座るジェレミーを快く思わず、やがて二人の関係は暴力を伴う対立へと発展する。
ここまでが本作の前半部分の概要であるが、やはりマーティン・マクドナー監督による『イニシェリン島の精霊』との共通点が随所に浮かび上がってくる。たとえば、パードリックは何もすることがないイニシェリン島で、あてもなく島内を彷徨い、午後にはパブでギネスビールを飲むといったルーティンに従って生活している。彼に不満を抱くコルムとの関係性も、本作におけるジェレミーとヴァンサンの構図と重なる部分がある。
両作品の主人公はいずれも笑顔をほとんど見せず、常に気難しい表情を浮かべている。また、閉鎖された小さなコミュニティの中で、男同士の滑稽とも言える争いが展開される。特に本作におけるジェレミーとヴァンサンの取っ組み合いの場面は、滑稽でありながらも不穏な空気を帯びている。
しかし、両作品の決定的な違いは、主人公の人物造形における魅力の差異である。パードリックは退屈な話しかしない人物として描かれ、周囲の人々から距離を置かれている。一方、ジェレミーはヴァンサンからは強く嫌悪されているものの、その他の登場人物からは好意を持たれている(性的な関心を含めて)。彼が周囲に好かれる理由は明確ではないが、いわゆる「人たらし」としての要素を多分に備えている。居候生活を続け、嘘をつき、思わせぶりな態度を取る一方で、聞き上手で容姿も整っており、「悪いことをするような顔ではない」と評される場面もある。
そのうえ彼は、そうした自身の性質を自覚し、計算的に行動している節がある。ヴァンサンとの確執においても、自らが非難されることがないと分かった上で行動している可能性すらある。例えば、森でのある決定的な場面において、あえて車に乗った点などにそれが表れている。この視点からすれば、最も常識的な感性を持っていたのはヴァンサンであった可能性すらある。彼はジェレミーを「サイコパス」と呼び、町から出ていくよう執拗に迫るが、それは異常な状況における唯一の正常な反応だったとも考えられる。狂った環境においては、しばしば「正しさ」こそが排除される対象となるのである。
また、物語の舞台においても両作品は対照的である。『イニシェリン島の精霊』ではアイルランドの雄大な自然が背景として描かれるのに対し、本作では南フランスの田舎町が舞台となっており、煉瓦造りの無機質な建物が並ぶ光景が支配的である。人工的に作られた閉鎖的な田舎町は、人間関係の陰湿さや孤独感をより強調し、不気味な空気を醸成している。さらに、本作には劇伴がほとんど用いられておらず、その静けさが鑑賞者の不安感をいっそう際立たせている。
ジャンルとしてはサイコスリラー的な印象を受けるかもしれないが、実際には現実に起こりうる人間関係の歪みや、田舎特有の閉塞感を少し誇張して描いているに過ぎない。そうした点において、本作は田舎における不気味さと孤独を再認識させる作品である。
なお、本作におけるアルコールの描写も興味深い。ジェレミーは、酔っていることを言い訳にすることで、自らの行動を正当化する。社会的規範が希薄なコミュニティにおいては、「酔っていたから」という理由が予想以上に通用してしまうのかもしれない。