このレビューはネタバレを含みます
接する瞬間に
駈の死が一瞬のことのように描かれているが、ハルキゲニアが化石として堆積していた時間を考えれば、私たちの人生も一瞬にしか過ぎない。
あってもなくても大差がない今日という一日。死んでても生きてても今日という日は進んでいく〈私〉の存在。人生に定まった意味もないのだから、私たちはただ死が訪れる瞬間を待っていればいい。
でも、
どうして私たちは恋愛をしたり、誰かと生きることを選ぼうとするのだろうか。
カンナも駈の早すぎる死を回避しようと行動する。離婚届を出すほどに関係は冷め切っていたのだから積極的な動機はないのだろうけれど、タイムスリップしたのなら仕方がない。
ここで印象的なのは結婚を回避する行動が失敗に終わる点だ。カンナの発想は正しい。結婚後の行動を変えようとしても難しいのならば、そもそも結婚しなければいい。彼には好意を寄せてくれる里津がいるのだから、尚更カンナと結婚する必要もない。彼女が存在する理由はない。
しかし、物語はこの選択を挫折させる。駈とカンナが赤い糸で結ばれていることを変更不可能な運命として決定づける。それなら〈私〉がいなくなることではなく、〈私〉がどのように他者や瞬間に接するかが問題となってくる。だから本作のタイトルが「ファーストキス」なのだろう。
口に運んだ途端に溶けてしまうかき氷を食べようとするとき、はじめて〈あなた〉に会ったとき。数年前に頼まれた餃子が届いたとき、パンくずがマグカップに入っているのをみてしまったとき、隠されていた手紙を読むとき、どのように接するか。失敗もあるかもしれない。でも写真のように瞬間を振り返ったとき、笑っていたり、よかったと思えているのが多ければいい。それは運命を変えたということではないけれど、解釈は変わっている。
それこそ日常の再解釈や肯定と言うべきものであり、私たちが誰かと生きようとする理由だろう。人生や〈私〉の些末さに変わりはないが、その一瞬は何にも代え難い美しいものだ。
思えば映画だって、瞬間を連続させて動かしたイメージである。
それなら、どう接する?