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BeRLiNの教授のレビュー・感想・評価

BeRLiN(1995年製作の映画)
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色々と感慨深い映画。1995年の日本。1995年の東京。僕は当時17歳。
当時のカッコいいものが、自分の美的感覚を大きく形成している。
その中で憧れだったのは永瀬正敏。

当時、ミュージシャン高野寛と、女優の緒川たまきがホストを務めるNHKの情報番組「ソリトン SIDEB」の日本映画特集で塚本晋也と共に特集された利重剛監督。
そして監督デビュー作の「ZAZIE」は繰り返し観ていた。

しかし当時観た時も、今回もやっぱり上手くハマらなかった。
岡崎京子的な作劇は指摘されているが、それこそが「90年代的」でもあるし、篠田昇の撮影によるルックも、現代では「イタイ」と消費されがちなキョーコ(中谷美紀)も、何より鉄夫(永瀬正敏)の煮え切らなさもまた、当時の自分を見るようでもあり、バブル期の大はしゃぎから疲れ果てて、ただただ無気力になっていった時代の、現在では取るに足らないような絶望感がそのままパッケージされている。

まず。キョーコの存在の空白さ。ある意味では普遍的だとしても、あるジャンル的な人物造形としては平易に印象が強い。
物語上での帰結としても「天使」ではなく「どこにでもいる実存の不安を抱えた普通の女の子」であるという示唆はされるが、それを取り立てて映画にするという厚みは残念ながら本作においてはない。

その「軽薄さ」や「浅薄さ」こそが、自分たちの世代たる「90年代的」とも言える風俗とも言えなくはないが、それ故に胃がキリキリしてしまう。
鉄夫のフテりや開き直りも、キョーコの行き当たりばったりさも、それに妙な付加価値を見出してしまう大人たちも「そんな時代だったなぁ」という感慨はあれど、今となっては全てがモラトリアムな感じが強い。

無論、後からならなんとでも言えることは承知の上で、しかし本作が「時代の空気」そのものであるが故のダメさであり、それは突破する普遍性は残念ながら本作にはない。
その中で、唯一の成熟した大人として存在しつつキョーコに思い入れてしまう山崎(山田辰夫)のアンビバレントな存在感は救いだった。

そしてこれからはもうスクリーンで観る機会のない人たちが、数多名前が刻まれ、画面に映し出されている、という感傷は強く残った。
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