結局お前は何をした?
僕は納得しない。これは確かに社会派ドキュメンタリーだ。そこに「伝える」の意義があるのもわかるし今後、統合失調症などで悩む家族への「一つの指針」になるのもわかる。
でもね、だったらお前は何をしているのかってことなんだ。これは報道、ドキュメンタリー自体の宿命的な者でもあるんだけど、結局「観察者は何をすべきか」という問題に答えてない(それは無理は分かっている。無理は分かっているけどあえてその疑念を投げつけてみる)。ここにあるのはただひたすらに断罪をし、最後は父親までその俎上にあげたあとの「自分の公平性」でしかない(公平ではないという意見はあえて無視する)。
こんな気持ちになったのは僕が母を亡くすまで「何もしてない」からだと観ていて思ったんだ。そうだ、僕は「何もしていない」。母が病気であることを知っていても「そこまでではないだろう」とばかりに仕事にプライベートに動いていた。たまに免罪符的に母に会うだけ。そして久方ぶりに会ったときはもう手遅れだった。さらにその後は免罪符的に病院に通ったけどお前は何かしたかと言えば「何もしてない」。病院の治療法にただサインをし、ただ母に「良くなってくれ」と祈るだけだ。そうだ、この映画の監督と僕は同じ立ち位置にある。どちらも実は「何もしていない」。この監督はたまに実家に帰ってきて「統合失調症」の姉と、そしてそれに困惑させられた両親にあうだけだ。確かに両親も悪い。でもそれに対して何をしたか。そこでただ俯瞰で眺め嘆きさらには怒っていたにすぎないのでは。
そうだ、僕も監督も「何もしていない」んだ。
サルトルはアンガージュマンとして「積極的に中に入るべきだ」といっている。それは俯瞰で眺める僕/監督に対し勇気のいることだ。そしてその勇気がないものはただ俯瞰で眺め講釈を垂れ、ほかの意義を探す。でもね、そんな講釈より学問より、ただ一緒にいることのが大事なのではないか。僕はたまにそう思うんだ。心理学者の東畑が語る「いる」ことの大切さ。それがこの監督には(そして僕には)ない。見ながら本当に自己批判をしてしまった。これだけ打ちのめされてしまったのはなかなかなかったんだ。それはすべて「僕」のせいだと今は思っている。
「どうすればよかったのか」
その題名には欺瞞がある。そうだ、監督も気づいているはずなんだ。「自分がどうもしていない」ことを。だからこそこんな題名を書いたのではないか。そして悩みに関し残るのは真っ黒な世界だけだ。あえて言おう。もっと参加すべきだったと。
※完璧に私的な理由でこの作品の評価を下げてしまった。監督にはすまないと思いながらも僕はこの監督を許すことが出来ない。それは自分を許すことにつながるからだ。作品の出来とは関係がない。
※最後近くに姉が手を振るシーンがある。エモーションが涌くシーンだと思う。それと同じような映像を母の葬儀の日に流した。そこでは母が笑顔で玄関の前で手を振っていた。なんていう偶然だと思いなぜか哀しみより怒りが込み上げてきた。それの対象は監督であり「僕」である。
※とそんな気持ちを思いながらもまたこんなレビューをフィルマで書いている自分がいる。半分は反省だけど半分は自己顕示でもあると思う。そこは否定しない。嫌悪はあるが。