本作品では上記の通り、これまでの連作を引用するように、様々な角度からパーロウに近付こうとする。まずは物質として祖父から父親に受け継がれたバイオリンが登場する。彼女はこのバイオリンを様々旅する先々にも肌身離さず持ち歩いている。オードリーの父親は既に亡くなっており、病気の母親とは仲が悪いのだが、その原因として元々はバイオリニストだった母親が結婚出産を経て演奏家としての道から離れざるを得なくなったことが挙げられ、父親の忘れ形見であるバイオリンは母親にとっては憎しみの象徴であり、転じて親子不和の象徴的なアイテムでもあるのだ。このバイオリンが後にパーロウから祖父、そして父親に受け継がれたグァルネリ・デル・ジェスそのものであることが判明し、だからこそこれがある種の呪縛であり、それを彼女が常に抱えていたという意味で本作品の象徴的なアイテムであることが色濃くなる。また、回顧録の朗読という形でパーロウの言葉も映画に参加し、彼女に縁のある土地を巡るオードリーの調査旅行と過去を結びつけている他、残されたパーロウの数少ない写真と同じ行動を取ることで、自身もパーロウと繋がりを得ようとしている。そして、何と言っても今回は"音"が重要なモチーフとなる。『Veslemøy's Song』もそうだったが、こちらはレコード盤という物理的な制約があったので、どちらかといえば"音"そのものよりもパーロウ自身が演奏したレコードという方が重要視されていた。一方で、本作品は"音"そのものを記憶/記録と紐付けることでそれらを蘇らせることを選んでいる。オードリーも当初はロンドンでサウンド・アーキビストに会って、実際の音声を突破口に過去と現在を繋げようとしていたが、友人に"音は物体とは異なる存在であり、その音が鳴らされた他全ての時間と繋がり、感情を刺激する形で繰り返されることがある"と指摘され、100年前の忘れ去られた音楽を再び奏でることが、すなわちパーロウと繋がることであると理解したのだ。ちなみに、同じく音のアーカイブから記憶を探る作品としてジョナサン・デイヴィス『Topology of Sirens』があるが、こちらも叔母の遺したカセットテープであることから、音そのものを起点としてるわけではなかった。
また、冒頭から、母親との会話が音声のみで提示されるのも、音を起点とした人間の関係性の変化という意味で見逃せない。オードリーとその母親との確執はパーロウとその母親(彼女は娘のマネージャーであり全てのツアーに同行した)の関係にも、オードリーとパーロウの関係にも転写されている。後者に関しては、バイオリニストとしてのキャリアの邪魔になるからと生涯独身を貫いたパーロウと、オードリーを産んだことで結果的にキャリアから遠ざかった母親が、オードリーのパーロウへの病的な執着を基軸に対比されている。中盤で、オードリーは母親との毒々しい関係に支配され、選択には常に母親が片側の天秤にいたと友人に指摘されている。また、オードリーは仕草が母親に似ていることに気付いて嫌になったとも告白している。これらは死者の思い出を物質や行為に転写して残すことを描いた『Point and Line to Plane』や『A Woman Escapes』とは真逆のことを言っており、明らかにこれまでの連作へのアンチテーゼとなっている。パーロウへの病的な執着は、ある意味で母親の一部分のような存在であり、母親との関係を素直に修正できないオードリーが、母親と真逆のことをして成功したパーロウを深く理解することで、母親に近付こうとしたということなんだろうけど、その行為こそが呪いでもあるというような感じすらしている。
【ソフィア・ボーダノヴィッツ、継承される音楽について】 数年前から注目しているソフィア・ボーダノヴィッツ監督が対に2時間半近い超大作『Measures for a Funeral』を放った。本作は、『Veslemøy’s Song』の続編に近い作品であり、忘れ去られたヴァイオリニストであるキャスリン・パーローの痕跡を追う内容となっている。ソフィア・ボーダノヴィッツ監督は一貫して物質的痕跡から過去を紐解き、それをフィクションとして抽象化あるいは普遍化していく監督であるのだが、『Measures for a Funeral』はその集大成ともいえる作品であった。